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ハンス・クリストフ・ビンスワンガー(Hans Christoph Binswanger, 1929–2018)は、スイス・ザンクトガレン大学の経済学者として、現代金融システムが内在的に持つ「成長強制(Wachstumszwang)」のメカニズムを理論化し、生態経済学と貨幣理論を結合した独創的な分析を展開した。彼の理論的貢献は、銀行による信用創造と利子構造が経済システム全体に恒常的な成長圧力を課すという洞察にある。この「成長スパイラル(Wachstumsspirale)」理論は、なぜ現代経済が持続的成長を前提とせざるを得ないのかという根本的問題に対する構造的説明を提供している。
ビンスワンガーの分析が特に重要なのは、従来の経済学が成長を所与の前提として扱ってきたのに対し、成長そのものを金融制度の産物として内生化した点である。彼は貨幣システムの構造的特性から出発して、マクロ経済の動学を導出し、さらにその動学が自然環境の物理的制約と衝突する可能性を論じた。この理論的枠組みは、環境経済学、金融理論、制度経済学の接点に位置し、現代資本主義の持続可能性問題に対する根本的な問いを提起している。
ビンスワンガーの成長スパイラル理論の出発点は、現代の部分準備銀行制度における信用創造の仕組みにある。銀行が融資を行う際、銀行は借り手の口座に預金を記帳することで新たな貨幣を創造する。この過程で重要なのは、銀行が元本に加えて利子の支払いを求めることである。しかし、利子に相当する貨幣は銀行によって創造されていない。
具体的なメカニズムを数値例で説明しよう。経済全体で1000単位の貨幣が流通しており、銀行が年利5%で全額を貸し出したとする。1年後、借り手は元本1000単位に利子50単位を加えた1050単位を返済しなければならない。しかし、経済全体に存在する貨幣は依然として1000単位のままである。この50単位の差額はどこから調達されるのか。
この問題に対する解決策は以下の三つに限られる:
第一に、既存の貨幣保有者から利子分を獲得する競争的過程である。これは借り手が他の経済主体から貨幣を獲得することを意味し、必然的に経済活動の拡大(売上増加、コスト削減、新規事業など)を要求する。
第二に、銀行がさらなる信用を供与することである。しかし、これは問題を先送りするだけであり、次期にはより大きな利子負担が発生する。
第三に、債務不履行である。しかし、これが大規模に発生すれば金融システム全体の安定性が脅かされる。
この利子と元本の非対称性は、ミクロレベルでは個別企業の収益圧力として現れ、マクロレベルでは経済成長への構造的圧力として作用する。企業は利子負担を賄うため、継続的な収益拡大を迫られる。これは以下のような行動を促進する:
生産性向上の圧力:企業は技術革新、設備投資、労働生産性向上を通じて単位コストを削減し、競争優位を獲得しようとする。これは長期的には技術進歩と経済成長に寄与するが、同時に雇用への圧力も生み出す。
市場拡大の要請:既存市場での競争が激化すれば、企業は新たな市場の開拓、製品の差別化、消費者需要の喚起に向かう。これは広告・マーケティングの発達、計画的陳腐化、消費文化の拡大などの現象として観察される。
金融化の進展:実体経済での収益機会が限られる場合、企業は金融投資や投機的活動に向かう。これは経済の金融化を促進し、実体経済と金融市場の乖離を拡大させる。
ビンスワンガーは、この成長スパイラルが景気循環と相互作用することで、経済の不安定性を増幅させると論じる。好況期には楽観的期待が信用拡張を促進し、レバレッジの拡大が投資と消費を刺激する。この過程で資産価格が上昇し、担保価値の増加がさらなる信用拡張を可能にする(金融加速装置効果)。
しかし、この拡張過程は持続不可能である。実体経済の成長率が金融資産の期待収益率を下回れば、期待の修正が始まる。投資家がリスク回避的になると、信用収縮が発生し、資産価格の下落が担保価値を減少させる。これがさらなる信用収縮を引き起こし、経済は収縮局面に入る(デレバレッジ過程)。
この循環過程で重要なのは、拡張期に蓄積された債務負担が収縮期に重荷となることである。企業や家計は債務返済のために支出を削減し、これが需要不足と失業の拡大をもたらす。中央銀行が金利を引き下げても、民間部門のバランスシート調整が完了するまで信用拡張は回復しない(流動性の罠)。
ビンスワンガーの代表作『貨幣と魔術(Geld und Magie, 1985)』は、ゲーテの『ファウスト』第二部に描かれた紙幣導入の場面を、現代金融システムの本質を理解するための寓話として読み解いた画期的な研究である。この文学的テクストの経済学的解釈は、単なる比喩を超えて、貨幣の本質的二重性に関する深い洞察を提供している。
ゲーテの『ファウスト』第二部第一幕では、皇帝の財政危機を解決するため、ファウストとメフィストフェレスが紙幣を導入する場面が描かれる。この紙幣は「地中に眠る財宝」を担保として発行されるが、その財宝は実際には存在せず、人々の期待と信頼によってのみ支えられている。ビンスワンガーは、この場面に現代の信用創造システムの本質的構造を見出す。
ビンスワンガーの解釈によれば、ファウストの紙幣は「記号としての貨幣(Geld als Zeichen)」の力を象徴している。この記号的貨幣は、実物的裏付けを持たないにもかかわらず、人々の期待と信頼を媒介として実体経済に強力な影響を与える。紙幣の導入により、皇帝の宮廷は活気を取り戻し、経済活動が活性化する。しかし、この活性化は実在の富の増加に基づくものではなく、将来への期待の前倒しに過ぎない。
この構造は、現代の信用創造システムと本質的に同じである。銀行が創造する預金通貨は、実物的な裏付けを持たない記号的存在でありながら、経済主体の行動を通じて実体経済に影響を与える。企業は銀行からの融資を基に設備投資を行い、消費者は住宅ローンを利用して不動産を購入する。この過程で、記号的な貨幣が実物的な富の創造を促進する。
しかし、ビンスワンガーが強調するのは、この記号的な力が実在の制約を超越することはできないという点である。ファウストの紙幣も、最終的には実物的基盤の不足により破綻する。同様に、現代の金融システムも、実体経済の成長率や自然資源の制約を無視して無限に拡張することはできない。
ビンスワンガーは、ファウスト的貨幣の特徴として「期待の自己実現(self-fulfilling prophecy)」メカニズムを指摘する。人々が紙幣の価値を信じる限り、その信念は現実となる。商取引が活発化し、投資が増加し、雇用が創出される。この過程では、貨幣の記号的性格が実体経済の活性化をもたらす正のフィードバックが働く。
しかし、この自己実現メカニズムは同時に脆弱性も内包している。期待が過度に楽観的になれば、実体経済の基盤を超えた信用拡張が発生する。資産価格の上昇、投機的投資の増加、レバレッジの拡大などが起こる。そして、期待と現実の乖離が限界に達すると、期待の反転が始まる。
この反転過程では、正のフィードバックが負のフィードバックに転じる。信用収縮、資産価格の下落、投資の減少、失業の増加が連鎖的に発生する。ファウストの紙幣が最終的に無価値となるように、現代の金融システムも周期的に危機を経験する。
ビンスワンガーのファウスト解釈で特に興味深いのは、「魔術的思考(magisches Denken)」と経済合理性の関係に関する考察である。ファウストの紙幣は魔術的な力によって支えられているが、その効果は極めて合理的な経済メカニズムを通じて現れる。人々は紙幣を受け入れ、それを媒介として経済活動を行う。この過程には何ら非合理的な要素はない。
しかし、この合理的行動の集積が、全体として非合理的な結果をもたらす可能性がある。個々の経済主体が合理的に行動していても、システム全体では過度な信用拡張やバブルが発生する。これは「合成の誤謬(fallacy of composition)」の一例である。
ビンスワンガーは、この魔術的側面が現代の金融システムにも存在すると主張する。中央銀行の政策、金融市場の期待形成、信用格付けなどは、いずれも記号的操作を通じて実体経済に影響を与える。これらの操作は高度に洗練された理論と技術に基づいているが、その本質的構造はファウストの魔術と変わらない。
ビンスワンガーの理論的貢献のもう一つの重要な側面は、生態経済学(Ecological Economics)の視点を貨幣理論に導入したことである。彼は経済システムを熱力学的システムとして理解し、エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則が経済活動に課す制約を分析した。
経済活動は本質的に、低エントロピーの資源(石油、鉱物、森林など)を高エントロピーの廃棄物に変換する過程である。この変換過程で有用な財・サービスが生産されるが、同時に環境負荷も発生する。重要なのは、この物質的変換過程には物理法則による絶対的な制約が存在することである。
一方、金融システムは記号的操作を通じて拡張する。銀行は帳簿上の操作により貨幣を創造し、金融市場では数値の操作により資産価値が決定される。この記号的拡張には、物理法則による直接的な制約は存在しない。理論的には、無限に拡張することも可能である。
ビンスワンガーは、この物質的制約と金融的拡張の非対称性が、現代経済の持続可能性問題の核心にあると論じる。金融システムが要求する成長率(利子率によって決定される)と、生態系が許容する成長率(再生可能資源の再生率や環境の吸収能力によって決定される)の間には、構造的な不一致が存在する可能性がある。
具体的に考えてみよう。森林資源を例にとれば、森林の年間成長率は生物学的プロセスによって決定され、通常は数パーセント程度である。しかし、森林開発プロジェクトに融資する銀行は、より高い利子率(例えば5-10%)を要求する。このプロジェクトが採算を取るためには、森林の生物学的成長率を上回る収益率を実現しなければならない。
この収益率格差を埋める方法は限られている。技術革新により木材の利用効率を向上させる、付加価値の高い製品を開発する、森林以外の収益源を確保するなどである。しかし、これらの方法にも限界がある。最終的には、森林の過剰伐採や他の環境破壊につながる可能性が高い。
ビンスワンガーが特に重視するのは、複利計算に基づく金融システムの指数関数的性質である。年利r%で運用される資産は、n年後に(1+r)^n倍に成長する。これは指数関数的成長であり、時間の経過とともに加速度的に増加する。
例えば、年利5%で運用される100万円は、70年後には約3,000万円になる。この成長を実現するためには、実体経済も同様の成長率を維持しなければならない。しかし、物質的資源や環境容量は有限であり、指数関数的成長を無限に続けることは不可能である。
この問題は、「複利の魔力」として知られる現象の裏面である。アインシュタインが「複利は宇宙で最も強力な力である」と述べたとされるが、ビンスワンガーはこの力が有限な地球環境と衝突する可能性を指摘する。
現代の環境経済学では、経済成長と環境負荷の「デカップリング(分離)」が可能であるという議論が主流である。技術進歩により、同じ経済価値をより少ない資源とエネルギーで実現できれば、成長と環境保護は両立するという考え方である。
しかし、ビンスワンガーはこのデカップリング論に対して批判的である。彼の分析によれば、相対的デカップリング(GDP単位当たりの環境負荷の削減)は可能であっても、絶対的デカップリング(環境負荷の絶対的削減)は極めて困難である。なぜなら、効率改善による削減効果は、経済規模の拡大による増加効果によって相殺される傾向があるからである(リバウンド効果)。
さらに、デカップリングが実現されたとしても、それが金融システムの要求する成長率に対応できるかは疑問である。環境効率の改善には技術的・経済的限界があり、その改善率が複利的な金融成長に追いつけない可能性が高い。
ビンスワンガーの理論は、現代経済の持続可能性問題に対する根本的な解決策として、金融システムの構造改革を提案する。その核心は、成長を前提とした現在の信用創造システムから、定常状態と両立する金融システムへの移行である。
公共貨幣システム(Vollgeld):ビンスワンガーは、民間銀行による信用創造を制限し、貨幣創造を公的機関に集中させる「公共貨幣システム」を提案している。このシステムでは、中央銀行が貨幣供給量を直接的にコントロールし、民間銀行は預金の仲介機能に特化する。これにより、信用バブルの発生を抑制し、金融システムの安定性を向上させることができる。
利子率の生態学的調整:金融市場で決定される利子率を、生態系の持続可能性と整合させるメカニズムの導入である。例えば、環境負荷の高いプロジェクトには高い利子率を適用し、環境改善に寄与するプロジェクトには低い利子率や補助金を提供する。これは「生態学的利子率(ecological interest rate)」の概念である。
長期投資の促進:短期的収益を追求する金融市場の性質を改め、長期的な持続可能性を重視する投資を促進する制度設計である。具体的には、長期保有に対する税制優遇、短期取引への課税強化、年金基金などの長期投資家の役割拡大などが考えられる。
ビンスワンガーは、既存の金融システムの改革と並行して、補完通貨システムの活用を提案している。これらのシステムは、成長スパイラルから部分的に独立した経済圏を形成し、地域経済の持続可能性を向上させる可能性がある。
相互信用システム:企業間の取引を銀行信用ではなく、相互の信用関係に基づいて決済するシステムである。スイスのWIR銀行は、この種のシステムの成功例として知られている(第26章で詳述)。相互信用システムでは、参加者全体の取引量に応じて信用が創造されるため、外部の金融市場の動向に左右されにくい。
地域通貨:特定の地域内でのみ流通する通貨を通じて、地域経済の循環を促進するシステムである。地域通貨は通常、利子を付けない、または減価する性質を持つため、投機的な保有を抑制し、実体経済での流通を促進する。
時間銀行:労働時間を基準とした価値尺度を用いる交換システムである。このシステムでは、すべての労働が等価値として扱われるため、市場価格による格差が緩和される。また、利子概念が存在しないため、成長圧力も発生しない。
ビンスワンガーの理論は、金融システムの安定性を維持するためのマクロプルーデンス政策の重要性も示唆している。これらの政策は、個別金融機関の健全性ではなく、金融システム全体のリスクを管理することを目的とする。
逆循環資本バッファー:好況期には銀行に追加的な資本積立を要求し、不況期にはその取り崩しを認める制度である。これにより、景気循環に伴う信用の過度な拡張と収縮を抑制できる。
レバレッジ比率規制:銀行の総資産に対する自己資本の比率を規制することで、過度なレバレッジの拡大を防ぐ。これは、リスク加重資産を基準とする従来の自己資本比率規制を補完する役割を果たす。
システミックリスク課税:金融機関の規模や相互連関性に応じて課税を行い、システミックリスクの発生を抑制する。大きすぎて潰せない(too big to fail)問題に対する市場ベースの解決策である。
ビンスワンガーが提案する制度改革は、理論的には整合的であるが、実際の実施には大きな政治経済学的課題が存在する。既存の金融システムには強力な既得権益が形成されており、根本的な改革に対する抵抗は必至である。
段階的移行戦略:急激な制度変更は経済混乱を招く可能性があるため、段階的な移行戦略が必要である。例えば、まず補完通貨システムの実験的導入から始め、その成果を踏まえて本格的な金融システム改革に進むという段階的アプローチが考えられる。
国際協調の必要性:金融システムの改革は、一国だけでは完結しない。国際的な資本移動や為替市場の存在により、一国が独自の改革を行っても、その効果は限定的である。したがって、国際的な協調体制の構築が不可欠である。
社会的合意の形成:金融システムの改革は、社会全体の価値観や生活様式の変化を伴う。成長を前提とした消費文化から、持続可能性を重視する文化への転換が必要である。これには長期的な教育や啓発活動が重要な役割を果たす。
ビンスワンガーの成長スパイラル理論は、ポスト・ケインズ派の内生的貨幣理論と多くの共通点を持つ。ポスト・ケインズ派も、銀行による信用創造が貨幣供給の主要な決定要因であり、中央銀行は事後的にこれに対応するという「内生的貨幣供給」の考え方を採用している。
しかし、ビンスワンガーの理論はポスト・ケインズ派を超えて、生態学的制約という新たな次元を導入している点で独創的である。ポスト・ケインズ派が主に需要不足と失業の問題に焦点を当てるのに対し、ビンスワンガーは成長そのものの持続可能性を問題とする。
ミンスキーの金融不安定性仮説との関連:ハイマン・ミンスキーの金融不安定性仮説は、資本主義経済が内在的に不安定であり、好況期に蓄積されるレバレッジが不況期に金融危機を引き起こすメカニズムを分析した。ビンスワンガーの理論は、この金融的不安定性に生態学的制約を加えることで、より包括的な不安定性理論を構築している。
現代貨幣理論(Modern Monetary Theory, MMT)は、政府の財政赤字と貨幣創造の関係について、従来の経済学とは異なる見解を提示している。MMTによれば、自国通貨を発行する政府は、インフレーション制約の範囲内で任意の支出が可能であり、財政赤字は必ずしも問題ではない。
ビンスワンガーの理論とMMTの関係は複雑である。両者とも貨幣の内生性を認める点では一致するが、成長と持続可能性に対する見解は異なる。MMTは完全雇用の実現を重視し、そのために必要であれば政府支出の拡大を支持する。一方、ビンスワンガーは成長自体の持続可能性を疑問視し、定常状態経済への移行を提案する。
グリーン・ニューディールとの関連:近年、MMTの理論的枠組みを用いて環境問題に対処する「グリーン・ニューディール」政策が提案されている。これは、政府の大規模な環境投資により、経済成長と環境保護の両立を図ろうとする政策である。ビンスワンガーの視点からは、このような政策も根本的な成長依存構造を変えない限り、持続可能性の問題を解決できないと批判される可能性がある。
近年のデジタル技術の発展は、ビンスワンガーが構想した金融システム改革に新たな可能性をもたらしている。中央銀行デジタル通貨(CBDC)の導入により、民間銀行による信用創造を制限し、貨幣供給を公的にコントロールすることが技術的に可能になりつつある。
プログラマブル・マネーの可能性:デジタル通貨は、その使用目的や有効期限を事前にプログラムすることが可能である。これにより、環境保護や社会的目標に資する取引のみを促進する「目的限定通貨」の実現が技術的に可能になる。
分散型金融(DeFi)との関係:ブロックチェーン技術に基づく分散型金融システムは、従来の銀行システムを介さない金融サービスを提供する。これらのシステムの中には、利子概念を持たない、または環境負荷を考慮した設計を持つものも存在する。
ビンスワンガーの理論は画期的な洞察を提供する一方で、いくつかの理論的・実証的な限界も指摘されている。
実証的検証の困難性:成長スパイラル理論の因果関係は複雑であり、実証的な検証が困難である。金融システムの構造と成長率の関係、生態学的制約の具体的な閾値などについて、定量的な分析が不足している。
技術進歩の役割:ビンスワンガーの理論は技術進歩の可能性を過小評価している可能性がある。デジタル化、人工知能、再生可能エネルギーなどの技術革新により、従来の物質的制約を克服できる可能性もある。
制度変化の動学:既存の制度がどのようにして新しい制度に移行するかについて、ビンスワンガーの理論は十分な説明を提供していない。制度変化の政治経済学的メカニズムについて、より詳細な分析が必要である。
文化的・社会的要因:経済システムの変化は、文化的・社会的要因と密接に関連している。ビンスワンガーの理論は主に経済的・技術的側面に焦点を当てており、これらの要因への配慮が不足している可能性がある。
21世紀最大の課題の一つである気候変動問題は、ビンスワンガーの理論の現代的妥当性を示す重要な事例である。気候変動の主要因である温室効果ガス排出は、化石燃料に依存した経済成長と密接に関連している。
カーボンバジェットと金融制約:科学的研究によれば、地球温暖化を産業革命前比2℃以下に抑制するためには、今世紀中に排出できる二酸化炭素の総量(カーボンバジェット)が限られている。この物理的制約は、ビンスワンガーが指摘した生態学的制約の具体例である。
一方、既存の化石燃料関連資産(石油・石炭・天然ガス埋蔵量、関連インフラなど)の価値は、これらの資源をすべて利用することを前提として評価されている。カーボンバジェット制約の下では、これらの資産の大部分は「座礁資産(stranded assets)」となる可能性が高い。
グリーンファイナンスの限界:近年、環境・社会・ガバナンス(ESG)投資やグリーンボンドなどの「グリーンファイナンス」が急速に拡大している。しかし、ビンスワンガーの視点からは、これらの取り組みも成長依存の金融システムの枠内での改革に過ぎず、根本的な解決にはならない可能性がある。
デジタル技術の発展は、従来の物質的制約を部分的に克服し、新たな成長パターンを創出している。ソフトウェア、データ、プラットフォームなどのデジタル資産は、物理的な資源をそれほど消費せずに価値を創造できる可能性がある。
ネットワーク効果と収穫逓増:デジタル経済では、ユーザー数の増加とともに価値が増大する「ネットワーク効果」や、生産量の増加とともに単位コストが低下する「収穫逓増」が重要な役割を果たす。これらの特性は、従来の収穫逓減の法則とは異なる成長パターンを可能にする。
しかし、デジタル経済も完全に物質的制約から自由ではない。データセンター、通信インフラ、デバイス製造などには大量のエネルギーと資源が必要である。また、デジタル格差や独占化の問題も新たな社会的制約として浮上している。
プラットフォーム資本主義の問題:デジタル経済の発展は、GoogleやAmazonなどの巨大プラットフォーム企業の台頭をもたらした。これらの企業は、ネットワーク効果と規模の経済を活用して市場を独占し、従来の競争原理を機能不全に陥らせている。ビンスワンガーの成長スパイラル理論は、このような新たな独占化メカニズムの分析にも応用できる可能性がある。
2020年の新型コロナウイルス・パンデミックは、現代経済システムの脆弱性を浮き彫りにした。感染拡大防止のための経済活動制限により、世界経済は急激な収縮を経験し、各国政府は前例のない規模の財政・金融政策を実施した。
システミックリスクの新たな形態:パンデミックは、金融システム内部から発生するリスクではなく、外部的なショックがシステム全体に波及するリスクの重要性を示した。ビンスワンガーの理論は、このような外部的ショックに対するシステムの脆弱性についても示唆を提供する。
高度に統合された金融システムは、効率性を向上させる一方で、ショックの伝播速度と範囲を拡大させる。また、成長を前提とした債務構造は、収入の急激な減少に対して脆弱である。
「ビルド・バック・ベター」と持続可能性:パンデミック後の復興政策として、「ビルド・バック・ベター(より良い復興)」の理念が提唱されている。これは、単純に元の状態に戻すのではなく、より持続可能で公正な経済システムを構築しようとする考え方である。
ビンスワンガーの理論は、このような復興政策の設計において重要な指針を提供する。成長依存から脱却し、生態学的制約と整合的な経済システムを構築することが、将来のショックに対する耐性を向上させる可能性がある。
ハンス・クリストフ・ビンスワンガーの理論的貢献は、現代経済学に対する根本的な問いかけを含んでいる。彼の成長スパイラル理論は、なぜ現代経済が持続的成長を前提とせざるを得ないのかという構造的メカニズムを明らかにし、その成長依存が生態学的制約と衝突する可能性を指摘した。
ビンスワンガーの分析の独創性は、貨幣・金融・生態という異なる領域を統合した包括的な視点にある。従来の経済学が個別に扱ってきたこれらの領域を結合することで、現代資本主義の構造的特性とその限界を浮き彫りにした。特に、『貨幣と魔術』におけるファウスト的貨幣の分析は、記号的操作と実体的制約の緊張関係を文学的洞察と経済理論の融合によって描き出した傑作である。
しかし、ビンスワンガーの理論は単なる悲観的な診断に留まらない。彼が提案する制度改革—公共貨幣システム、補完通貨、生態学的利子率—は、成長依存からの脱却と持続可能な経済システムの構築に向けた具体的な道筋を示している。これらの提案は、21世紀の気候変動、デジタル化、パンデミックなどの新たな課題に対しても有効な示唆を提供する。
ビンスワンガーの遺産は、経済学が自然科学や人文学との対話を深め、学際的な視点から現代社会の課題に取り組む必要性を示している。彼の理論は、経済成長と持続可能性の両立という21世紀最大の課題に対する重要な理論的基盤を提供し続けている。
理論的核心:
方法論的革新:
現代的意義:
政策含意:
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