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18世紀中葉から19世紀前半にかけての江戸時代は、日本経済史上最も劇的な構造変化の時代であった。農業中心の封建経済から商業・金融が発達した貨幣経済への移行が進む中で、江戸幕府は前例のない経済的挑戦に直面していた。この時代の三大改革——田沼意次の商業振興政策(1770年代前半〜1786年)、松平定信の寛政改革(1787年〜1793年)、水野忠邦の天保改革(1841年〜1843年)——は、この根本的な経済変動に対する三つの異なる政策的応答として理解することができる。
なぜこれら三つの改革が重要なのか。それは、現代の我々が直面している経済政策の根本的ジレンマと本質的に同じ問題を扱っているからである。政府はいかにして経済成長と社会安定を両立させるべきか。市場メカニズムと政府介入の適切なバランスはどこにあるのか。金融政策と財政政策はどのように連携すべきか。これらの問題に対し、江戸時代の政治家たちは現代の経済理論を先取りするような政策実験を行い、その成功と失敗から貴重な教訓を残している。
田沼意次は、現代でいう「成長戦略」と「金融緩和」を組み合わせた政策により、年率1.2%という江戸時代としては驚異的な経済成長を実現した。しかし、その成功は同時に格差拡大と政治腐敗という副作用をもたらし、最終的には政治的破綻に至った。松平定信は、現代の「緊縮財政」と「社会保障制度」を先駆的に実施し、短期的な財政健全化と社会安定を達成したものの、経済活力の低下という長期的な代償を支払うことになった。水野忠邦は、「価格統制」と「市場規制の撤廃」という一見矛盾した政策の組み合わせにより、経済理論が予測する通りの政策失敗を招いた。
これらの歴史的経験は、現代の経済政策立案者にとって極めて示唆に富むものである。なぜなら、政策の基本的なメカニズムと制約条件は、時代を超えて共通しているからである。本章では、これら三つの改革を現代経済学の理論的枠組みで分析することにより、経済政策の普遍的原理と歴史的教訓を明らかにする。
田沼意次が政治の中枢に立った18世紀中葉、江戸幕府は深刻な構造的ジレンマに直面していた。このジレンマを理解するためには、当時の経済状況を具体的な数値とともに検討する必要がある。
幕府財政の基盤である年貢収入は、物理的限界に達していた。新田開発の余地が枯渇し、既存農地の生産性向上も技術的制約により頭打ちとなっていたからである。元禄期(1688-1704)に約400万石であった幕府直轄領からの年貢収入は、60年後の宝暦期(1751-1764)においても420万石程度にとどまっていた。わずか5%の増加率は、同期間の人口増加率(約15%)や経済規模の拡大を大幅に下回るものであった。
この農業部門の停滞とは対照的に、都市部の商業活動は爆発的な成長を遂げていた。その象徴が大坂の米市場である。享保期(1716-1736)に年間約1000万石であった取引高は、明和・安永期(1764-1781)には1500万石を超えた。50%の増加は、単純な人口増加では説明できない。これは、貨幣経済の浸透により、自給自足的な農村経済から市場経済への移行が加速していたことを意味していた。
さらに重要なのは、この商業拡大の質的変化であった。現金決済から手形取引への移行により、物理的な貨幣量の制約を超えた信用創造が可能になっていた。大坂の両替商が発行する手形は、実質的に「民間通貨」として機能し、経済活動の規模を飛躍的に拡大させていた。この信用経済の発達は、商業部門で創出される付加価値と利潤の規模を、従来の想定を大幅に上回るレベルまで押し上げていた。
ここに田沼意次が直面した根本的矛盾があった。経済の実態は既に商業・金融中心に移行していたにもかかわらず、政府の財政システムは依然として農業中心の年貢制度に依存していた。この「制度の遅れ」により、拡大する商業利潤の大部分が公的財政の外部に留まり、幕府は経済成長の恩恵を十分に享受できずにいた。
この状況を現代の経済学用語で表現するなら、「税制の構造的不適合」と「課税ベースの狭小化」という問題であった。GDP(当時の概念ではないが)に占める商業・サービス業の比重が拡大しているにもかかわらず、税収構造は農業部門に偏重していたのである。意次の改革は、この構造的矛盾を解決するための合理的な試みとして理解されなければならない。
田沼意次の政策は、単発的な改革ではなく、商業経済の拡大を政府収入の増加に直結させる巧妙な制度設計であった。彼の政策体系を理解するためには、なぜこのような政策が必要だったのか、そしてどのようなメカニズムで機能したのかを詳細に分析する必要がある。
株仲間制度による「規制された市場」の創出
田沼政権の中核をなしたのは株仲間制度であった。この制度が革新的であったのは、従来バラバラに存在していた商業組織を統合し、政府と民間の新たな協力関係を構築した点にある。
従来の商業組織は、地域的・職種的に分散し、幕府との関係も非公式なものにとどまっていた。これらの組織は確かに商業活動を円滑化する機能を持っていたが、その活動から生まれる利益は完全に民間に留まっていた。意次が着目したのは、これらの組織の持つ「独占的地位」と「公共的機能」であった。
意次の制度設計は巧妙であった。商業組織を「株仲間」として公認し、独占的営業権を法的に保障する代わりに、運上金(営業税)と冥加金(特別税)の納付を義務化したのである。これにより、民間の商業活動から生まれる独占利潤の一部を、制度的に政府収入として確保することが可能になった。
具体例を見ると、その経済効果の大きさが理解できる。安永2年(1773)に公認された江戸の魚問屋株仲間は、年間運上金として金500両、冥加金として金200両、合計700両を納付した。この金額は、当時の旗本の平均年収(200-300両)の2倍以上に相当する巨額であった。しかも、これは一つの株仲間からの収入に過ぎない。大坂の木綿問屋、江戸の呉服商、諸国の酒造業者など、全国で数百の株仲間が同様の税収をもたらしていた。
この制度の理論的意義は、現代の産業組織論の観点から見ると一層明確になる。株仲間制度は、完全競争でも完全独占でもない「規制された独占」を創出していた。独占的地位を享受する企業に対し、品質管理、価格の適正性、取引秩序の維持という公共的機能の提供を求める仕組みは、現代の公益事業規制と本質的に同じメカニズムであった。
なぜこの制度が機能したのか。それは、独占利潤と公共的機能提供のコストを適切にバランスさせていたからである。株仲間は独占的地位により通常以上の利益を得ることができたが、同時に品質管理や市場秩序維持というコストも負担した。政府は税収を確保すると同時に、市場の安定化という公共財も獲得した。この「三方良し」の構造が、制度の持続性を支えていた。
対外貿易戦略による収支改善と経済フロンティアの拡大
田沼の第二の政策的柱は、対外貿易の積極的活用であった。この政策がなぜ重要だったのかを理解するためには、当時の日本の貿易構造を把握する必要がある。
江戸時代の日本は、長崎を唯一の窓口とする制限的な貿易体制を採用していた。しかし、この制限的な体制の下でも、貿易は日本経済に重要な影響を与えていた。特に問題となっていたのは、慢性的な貿易赤字であった。中国からの生糸・絹織物、砂糖、薬種などの輸入額が、日本からの銅・海産物などの輸出額を恒常的に上回っていたのである。この貿易赤字は、国内の金銀の流出を意味し、貨幣供給量の減少圧力となっていた。
田沼はこの問題に対し、二つの戦略で対処した。第一は輸出拡大戦略である。日本の主要輸出品である銅について、従来の消極的な管理から積極的な増産・輸出促進への転換を図った。具体的には、年間輸出量を約3000トンから4500トンまで50%拡大し、これにより年間約15万両の追加外貨収入を実現した。この金額は、当時の幕府年間収入(約60万両)の4分の1に相当する巨額であった。
第二は輸入代替戦略である。最も輸入額の大きかった砂糖について、国内生産の拡大により輸入依存度の低下を図った。琉球・薩摩ルートでの黒糖生産を奨励し、本土での甘蔗栽培も推進した結果、年間約10万両の輸入代替効果を達成した。
これらの貿易政策の背景には、重商主義的な経済思想があった。貿易収支の改善により国内の金銀蓄積を増やし、それを国内経済の拡大に活用するという発想は、同時代のヨーロッパ重商主義と共通するものであった。
さらに注目すべきは、蝦夷地開発への取り組みである。田沼政権は最上徳内らの探検隊を派遣し、蝦夷地の資源調査と開発可能性を詳細に検討した。これは単なる領土的野心ではなく、新たな経済フロンティアの開拓による財政基盤の拡大を目指した合理的な政策であった。蝦夷地の豊富な海産資源と毛皮は、中国市場での需要が高く、新たな輸出商品として期待されていた。また、蝦夷地開発は、本土の過剰人口の解決策としても位置づけられていた。
市場協調型金融政策による経済安定化
田沼の第三の政策的革新は、民間金融システムとの協調による間接的な経済管理であった。この政策が画期的であったのは、従来の直接的な価格統制や流通規制を避け、市場メカニズムを活用した政策手法を開発した点にある。
なぜこのような政策が必要だったのか。江戸時代中期以降、商業経済の発達により、米価の変動が社会全体に与える影響が格段に大きくなっていた。米は単なる食料品ではなく、事実上の「基軸通貨」として機能していた。米価の急激な変動は、都市労働者の生活を直撃するだけでなく、商業取引の基準となる価格体系全体を不安定化させる危険があった。
田沼はこの問題に対し、大坂の両替商や江戸の大商人との協調により、「価格安定化基金」的な仕組みを構築した。この仕組みの核心は、政府と民間の役割分担にあった。政府は政策方針と資金の一部を提供し、民間は市場での実際の売買操作と情報収集を担当した。
具体的な運営方法は以下の通りであった。豊作時には、政府の指示により民間商人が市場で米を大量購入し、価格の過度な下落を防いだ。購入資金は政府が提供し、購入した米は政府の備蓄として管理された。逆に凶作時には、この備蓄米を市場に放出し、価格高騰を抑制した。この操作により、米価の変動幅を通常の±50%程度から±30%程度まで縮小することに成功した。
この政策の理論的意義は、現代の金融政策における「市場操作」の先駆的事例として評価できる点にある。中央銀行が金融市場で国債を売買することにより金利水準を調整する現代の公開市場操作と、基本的なメカニズムは同じであった。
さらに重要だったのは、三貨制度(金・銀・銭)の安定的運営への配慮であった。田沼は金銀比価の調整により、三つの貨幣間の交換レートを安定化させ、信用取引の基盤を強化した。これは、現代の為替政策に相当する高度な金融政策であった。
田沼政権の政策効果は、財政収入の観点から明確に確認できる。株仲間制度の導入により、商業関連の税収は年間約20万両に達し、これは従来の幕府年間収入(約60万両)の3分の1に相当する増収であった。また、貿易政策により、対外収支は年間約25万両の改善を実現した。
しかし、これらの政策は同時に物価上昇圧力をもたらした。江戸における米価は、明和期(1764-1772)の1石当たり銀60匁から天明初期(1781-1784)には銀80匁まで上昇し、約33%の価格上昇が生じた。この物価上昇は、政策の成功(商業活動の活性化)と失敗(生活コスト上昇)の両面を示している。
田沼政権の終焉は、天明4年(1784)の田沼意知暗殺事件を契機として急速に進行した。意知の暗殺は、単なる個人的怨恨ではなく、田沼政治に対する構造的反発の象徴的表現であった。
政治的破綻の根本的原因は、三つの制度的限界にあった。第一は、透明性の欠如である。株仲間制度や御用達システムは、特権付与の基準や手続きが不明確であり、縁故主義や腐敗の温床となった。第二は、利害調整メカニズムの不在である。商業振興政策は都市商人には利益をもたらしたが、農民や下級武士には負担増をもたらし、社会的合意形成に失敗した。第三は、危機管理能力の不足である。天明の飢饉という外生的ショックに対し、既存の政策枠組みでは適切に対応できなかった。
田沼意次の政策は、18世紀ヨーロッパの重商主義政策との比較において、その先駆性と独自性が評価される。特に、アダム・スミス(Adam Smith)が『国富論』(1776年)で批判した重商主義的政策の問題点——独占の弊害、レント・シーキング行動の誘発——を、株仲間制度は部分的に克服していた。
株仲間制度は、独占的地位の付与と引き換えに品質管理や市場秩序維持という公共財の供給を求める仕組みであり、現代の規制理論における「規制された独占」の概念に近いものであった。これは、完全競争市場では供給が困難な公共財を、独占利潤を原資として供給させるという、効率的な制度設計として評価できる。
しかし同時に、この制度は情報の非対称性と監督コストの問題を内包していた。規制当局(幕府)が被規制者(商人)の活動を完全に監督することは不可能であり、結果として腐敗や非効率が生じる余地があった。この問題は、現代の規制理論においても「規制の虜(regulatory capture)」として知られる現象の先駆的事例として理解できる。
松平定信が政権を担った1787年、日本は江戸時代最大の複合危機に直面していた。この危機を理解することは、なぜ定信が田沼とは正反対の政策を選択したのかを理解する鍵となる。
天明の大飢饉(1782-1787)は、単なる自然災害ではなく、江戸時代の経済・社会システムが内包していた構造的脆弱性を一挙に露呈させた事件であった。飢饉の直接的被害は確かに深刻であった。全国の米生産量は平年作の約2800万石から1783年には約2200万石まで減少し、20%という前例のない生産減を記録した。東北地方の被害は特に壊滅的で、津軽藩では人口の15%に相当する約3万人が餓死した。
しかし、真の問題は飢饉そのものではなく、それが引き起こした連鎖的な経済崩壊にあった。なぜ20%の生産減が社会全体の機能不全をもたらしたのか。それは、江戸時代の経済システムが、田沼時代の発展により高度に相互依存的になっていたからである。
米価の急騰がその引き金となった。1石当たり銀80匁であった米価は、一時は銀150匁まで上昇した。約90%の価格上昇は、都市住民の生活を直撃した。江戸の人口約100万人のうち、約70万人が米を市場で購入する必要のある非農業従事者であった。米価の倍増は、これらの人々の実質所得を大幅に減少させ、米以外の商品への需要を激減させた。
この需要減少は、商業・手工業部門に深刻な影響を与えた。織物、酒類、工芸品などの売上が急減し、多くの商工業者が経営困難に陥った。さらに深刻だったのは、この実体経済の悪化が金融システムに波及したことであった。
江戸時代の金融システムの中核を担っていた大坂の両替商は、全国の藩からの借入れと全国への貸出しを仲介する「金融ハブ」として機能していた。しかし、飢饉により各藩の年貢収入が激減すると、藩債の不履行が相次いだ。特に東北諸藩からの債務不履行は、両替商の資本基盤を深刻に毀損した。
この金融危機は、手形取引を基盤とする商業金融システム全体の機能不全を引き起こした。手形の信用力が低下し、商人間の信用取引が困難になった結果、商業活動そのものが収縮した。これは現代でいう「信用収縮(credit crunch)」現象の歴史的事例であった。
さらに重要なのは、この経済危機が政治的正統性の危機と直結したことである。民衆の怒りは、田沼政治の「商人優遇」政策に向けられた。「贅沢な商人が米を買い占めて庶民を苦しめている」という単純化された理解が広まり、江戸では打ちこわし、大坂では商家襲撃が頻発した。
定信が直面したのは、単なる経済危機ではなく、経済・社会・政治の三重危機であった。この複合的危機に対処するため、彼は田沼の市場重視路線とは正反対の、政府主導による社会安定化路線を選択することになった。
松平定信の寛政改革は、財政緊縮、社会救恤、市場規制という三つの政策領域を統合した包括的システムとして設計された。これらの政策は、短期的な危機対応と長期的な社会安定の両方を目指すものであった。
(1)財政緊縮政策と支出構造の再編
寛政改革の第一の柱は、徹底した財政緊縮による幕府財政の健全化であった。定信は、田沼時代の「成長志向」政策を「浪費」として批判し、支出の大幅削減を実施した。
具体的には、年間支出を従来の約80万両から約60万両まで25%削減し、削減分を借金返済と備蓄積立に充当した。特に大幅な削減が行われたのは、公共事業費(年間約15万両から約8万両へ)と交際費・贈答費(年間約5万両から約2万両へ)であった。
同時に、諸藩に対しても財政規律の強化を求め、「国元倹約令」により各藩の支出削減を指導した。これは、各藩の財政悪化が大坂金融市場の不安定化をもたらしていることを踏まえた措置であった。
(2)社会保障制度の創設と危機管理体制の構築
定信の政策で特に注目すべきは、江戸時代初の本格的な社会保障制度の創設である。この政策は、単なる慈恵的措置ではなく、経済危機時の社会安定維持のための制度的インフラとして設計された。
囲米制度(備蓄米制度)では、平年作時に米価の一定割合を強制的に備蓄させ、凶作時に市場価格以下で放出することで価格安定化を図った。具体的には、江戸では年間約50万石、大坂では約30万石の備蓄を義務化し、これにより米価の変動幅を±30%以内に抑制することを目標とした。
人足寄場制度は、失業者や貧民に対する職業訓練と生活保障を提供する施設であり、現代の職業安定所と生活保護制度を統合したような機能を持っていた。石川島人足寄場(1790年設置)では、約500名の収容能力を持ち、大工・左官・織物などの技能訓練を提供した。
(3)金融・商業規制と信用システムの再構築
定信の政策で最も論議を呼んだのは、棄捐令(きえんれい)による債務免除政策であった。寛政元年(1789)に発令されたこの政策は、旗本・御家人の借金のうち、元金500両以下は全額免除、500両超は元金のみ返済という大幅な債務軽減措置であった。
この政策の対象となった債務総額は約200万両に上り、これは当時の幕府年間収入の約3倍に相当する規模であった。債権者である江戸・大坂の商人にとっては、巨額の損失を意味したが、定信はこれを「社会正義の回復」として正当化した。
同時に、株仲間制度に対しても厳格な規制を導入した。田沼時代に拡大した株仲間の特権を縮小し、新規設立を原則禁止とした。また、既存の株仲間に対しても、価格設定や取引慣行について詳細な監督を行い、「公正な価格」の実現を求めた。
寛政改革の政策効果は、短期的には確実に現れた。財政収支は、改革開始前の年間約20万両の赤字から、寛政5年(1793)には約10万両の黒字に転換した。米価も、天明期の高騰(1石当たり銀150匁)から寛政中期には銀70匁程度まで安定化した。
しかし、これらの成果は重大な副作用を伴っていた。棄捐令による債権カットは、商業信用の収縮をもたらし、手形取引の規模は改革前の約60%まで減少した。これは、江戸時代の商業活動が信用取引に大きく依存していたことを考えると、経済活動全体の萎縮を意味していた。
定量的に見ると、江戸・大坂間の商品取引量は改革前の約80%まで減少し、新規事業投資も大幅に減少した。特に、織物業や酒造業などの製造業では、資金調達困難により事業縮小を余儀なくされる企業が続出した。
寛政改革の制度設計には、現代の経済理論の観点から見ると、三つの根本的問題があった。
第一は、「流動性の罠」問題である。棄捐令による債務免除は、短期的には債務者の負担軽減をもたらしたが、同時に将来の信用供給を制約した。債権者(商人)は、将来再び債務免除が行われる可能性を考慮して、貸出を控えるようになった。これは、現代の金融理論における「時間不整合性(time inconsistency)」問題の典型例である。
第二は、「規制の逆選択」問題である。株仲間への規制強化は、優良な商人の市場退出を促し、結果として市場の質的悪化をもたらした。規制を遵守するコストが高い優良企業ほど市場から退出し、規制回避に長けた低品質な企業が残存するという現象が生じた。
第三は、「マクロ経済政策の矛盾」である。財政緊縮と金融規制の同時実施は、総需要の大幅な減少をもたらした。ケインズ経済学の用語で言えば、「緊縮のパラドックス」が生じ、個別の合理的行動(支出削減、リスク回避)が集計レベルでは経済全体の悪化をもたらした。
寛政改革をヨーロッパの同時代政策と比較すると、その特徴と限界がより明確になる。18世紀末のヨーロッパでは、フランス革命(1789年)とナポレオン戦争により、各国政府は財政危機に直面していた。
イギリスでは、ウィリアム・ピット(William Pitt the Younger)が所得税導入(1799年)により財政基盤を拡大し、同時に国債発行による戦費調達を行った。これは、増税による財政健全化と借入による需要維持を両立させる政策であった。
フランスでは、革命政府が封建的特権の廃止と土地改革により、新たな税収基盤を創出した。また、アシニア紙幣の発行により流動性を供給し、経済活動の維持を図った(ただし、後にインフレーションの問題を生じた)。
これらと比較すると、寛政改革の特徴は、財政健全化を支出削減のみに依存し、税収拡大や新たな資金調達手段の開発を行わなかった点にある。また、信用制度の破壊により流動性供給を制約し、結果として経済成長の基盤を損なった点も特徴的である。
寛政改革は、短期的な危機対応としては一定の成功を収めたが、長期的には日本経済の発展を制約する制度的レガシーを残した。
最も重要な影響は、商業・金融活動に対する政府不信の定着である。棄捐令の経験により、商人階層は政府の政策変更リスクを常に考慮するようになり、長期投資や信用拡大に慎重になった。これは、江戸時代後期の経済成長率低下の一因となった。
また、株仲間規制により、商業組織の自律的発展が阻害された。ヨーロッパでは同時期にギルド制度の近代化が進行していたが、日本では逆に商業組織の発展が停滞した。これは、明治維新後の近代化において、商工業の制度的基盤が脆弱であった一因となった。
一方で、囲米制度や人足寄場制度は、危機管理制度として一定の有効性を示した。これらの制度は、後の飢饉(天保の飢饉)においても機能し、江戸時代後期の社会安定に寄与した。現代の社会保障制度の原型として、制度史的意義を有している。
水野忠邦が老中として改革に着手した1841年は、江戸時代最後の大規模経済危機の渦中にあった。天保の大飢饉(1833-1837)は、天明の飢饉以上の深刻な被害をもたらし、その後遺症は1840年代まで続いていた。しかし、天保期の危機は単なる農業危機ではなく、都市化の進展と商業経済の複雑化により、従来の政策手法では対応困難な新たな性格を持っていた。
飢饉の直接的被害は天明期と同程度であったが、その社会経済的影響は質的に異なっていた。江戸の人口は18世紀初頭の約50万人から19世紀前半には約120万人まで増加し、大坂も約40万人に達していた。この都市人口の大部分は農村からの流入者であり、米価高騰の影響を直接的に受ける脆弱な階層であった。
特に深刻だったのは、都市部における「構造的失業」の発生であった。従来の飢饉では、農村での労働力不足により都市からの人口還流が生じていたが、天保期には農業生産性の低下により農村でも労働力需要が減少し、都市と農村の両方で失業問題が発生した。江戸では約10万人、大坂では約5万人の失業者が発生し、これは各都市人口の約10%に相当する規模であった。
さらに重要なのは、この時期に「投機的取引」が本格化していたことである。米市場では、大坂の大商人が先物取引や在庫操作により価格操縦を行い、人為的な価格高騰を演出していた。具体的には、1836年の米価は需給バランスから予想される価格(1石当たり銀70匁)を大幅に上回る銀120匁まで上昇し、この差額の大部分が投機利益として大商人に流れていた。
忠邦は、この「投機資本主義」とも呼べる状況を「商人の暴利」として強く批判し、市場メカニズム自体を否定する政策路線を選択した。この選択は、田沼の市場活用路線、定信の市場規制路線とも異なる、「市場解体」路線として特徴づけることができる。
天保改革の政策体系は、既存の市場機構を解体し、政府による直接統制に置き換えるという極めて急進的なものであった。この政策は、三つの相互関連する要素から構成されていた。
(1)株仲間解散と自由競争の強制
天保12年(1841)に発令された株仲間解散令は、江戸時代の商業制度史上最も急進的な政策であった。この政策は、田沼時代から約70年間にわたって発展してきた商業組織を一挙に解体し、「自由競争」による価格低下を実現しようとするものであった。
解散の対象となった株仲間は、全国で約200組織、構成員総数約2万人に及んだ。これらの組織が担っていた機能は、単なる価格カルテルではなく、品質管理、決済システム、紛争調停、情報流通など、現代の業界団体や商工会議所に相当する包括的なものであった。
例えば、江戸の魚問屋株仲間は、築地市場での競り制度、品質検査体制、代金決済システム、小売店への配送網を統合的に運営していた。この組織の解散により、魚類流通は一時的に混乱し、品質の悪い魚が市場に出回る事態が生じた。同様の混乱は、米穀、織物、酒類など、あらゆる商品分野で発生した。
(2)物価統制と流通規制の強化
株仲間解散と並行して、忠邦は直接的な価格統制を実施した。主要商品について「適正価格」を設定し、これを上回る価格での販売を禁止した。例えば、米価は1石当たり銀60匁、酒は1升当たり銭200文という具合に、詳細な価格表が作成された。
しかし、この政策は経済理論的に重大な欠陥を持っていた。統制価格が市場均衡価格を下回る場合、供給者は販売を控え、結果として品不足が生じる。実際に、米穀商人は米の販売を停止し、「隠し米」として在庫を温存する行動に出た。これにより、公式価格では米を購入できない状況が生じ、闇市場での高値取引が横行した。
(3)上知令と領域再編政策
天保改革の最も野心的な政策は、江戸・大坂周辺の大名領・旗本領を幕府直轄地に編入する「上知令」であった。この政策の狙いは、商業・交通の要衝を幕府が直接統治することにより、流通統制と税収確保を同時に実現することであった。
具体的には、江戸から半径10里(約40km)以内、大坂から半径5里(約20km)以内の全領地を対象とし、約100万石の領地が編入予定であった。これは、全国石高(約3000万石)の約3%に相当する規模であった。
この政策の背景には、都市経済圏の一体的管理という合理的な発想があった。江戸・大坂の経済活動は、周辺農村との密接な分業関係に基づいており、領主の違いにより統治方針が異なることは、経済効率を阻害する要因となっていた。上知令は、この問題を解決し、都市経済圏を統一的に管理しようとする試みであった。
天保改革の諸政策は、実施と同時に深刻な副作用を引き起こし、わずか2年余りで破綻に至った。この破綻は、政策設計の理論的欠陥と実施過程での政治的失敗の両方に起因していた。
株仲間解散の負の連鎖効果
株仲間解散により、商業取引の基盤となっていた信用システムが崩壊した。従来、株仲間は構成員の信用を相互保証する機能を持っており、これにより手形取引や掛売りが可能になっていた。組織解散により、この信用保証機能が失われ、現金決済への回帰が生じた。
この結果、流動性需要が急激に増加し、貨幣不足による取引収縮が発生した。江戸・大坂間の商品取引量は、改革前の約50%まで減少し、特に季節商品や高額商品の取引が困難になった。また、品質管理機能の喪失により、粗悪品の流通が増加し、消費者の商品不信が高まった。
価格統制の供給抑制効果
統制価格の設定は、予想通り供給抑制を引き起こした。経済学の基本原理である「価格統制は品不足を生む」現象が、江戸時代の日本でも明確に確認された。
米穀市場では、統制価格(1石当たり銀60匁)が市場均衡価格(約銀90匁)を大幅に下回ったため、商人は販売を控えた。この結果、公的市場では米の入手が困難になり、闇市場価格は統制価格の2倍以上(銀130匁)まで上昇した。皮肉なことに、価格引下げを目指した政策が、実際には価格高騰をもたらしたのである。
上知令の政治的破綻
上知令は、大名・旗本からの猛烈な反発を招いた。特に、譜代大名からの反対が強く、これは幕府の政治基盤を根底から揺るがす事態であった。反対の理由は、単なる既得権益の保護ではなく、領地経営の合理性にも基づいていた。
多くの大名・旗本は、長年にわたる領地経営により、地域特性に適した農業・商業システムを構築していた。これを一律に幕府直轄に移管することは、地域経済の効率性を損なう可能性があった。また、代替地として提供される遠隔地の領地は、既存の経営ノウハウが活用できず、収益性の低下が予想された。
政治的には、上知令は幕府の「専制化」として受け取られ、従来の合議制的統治への不信を招いた。この結果、忠邦の政治基盤は急速に侵食され、改革継続が困難になった。
天保改革の失敗は、政治的要因よりもむしろ、市場機構に対する根本的な無理解に起因していた。忠邦の政策は、三つの重要な経済原理を看過していた。
第一は、中間組織の機能に対する理解不足である。 株仲間は、単なる価格カルテル組織ではなく、取引コスト削減、品質保証、リスク分散などの重要な経済機能を担っていた。これらの機能は、完全競争市場では自動的に供給されるものではなく、組織的な取り組みが必要であった。株仲間解散により、これらの機能が失われ、市場効率が低下したのは必然的な結果であった。
第二は、価格機構の情報伝達機能に対する無視である。 市場価格は、需給バランスを反映する重要な情報であり、価格統制はこの情報伝達機能を阻害する。統制価格の下では、真の需給状況が不明になり、資源配分の効率性が損なわれる。天保改革期の品不足は、この情報伝達機能の破綻により生じた現象であった。
第三は、制度変更の調整コストに対する過小評価である。 既存の制度を急激に変更することは、関係者の適応コストを発生させ、短期的な効率性低下をもたらす。天保改革は、この調整コストを考慮せず、制度変更の速度が関係者の適応能力を超えていた。
天保改革の価格統制政策を同時代の国際事例と比較すると、その特異性がより明確になる。19世紀前半のヨーロッパでは、ナポレオン戦争後の経済混乱に対し、各国政府は異なるアプローチを採用していた。
イギリスでは、穀物法(Corn Laws)により農産物価格の下限を設定していたが、これは価格支持政策であり、価格抑制政策ではなかった。また、産業革命の進展により製造業の競争力が向上し、全体として物価下落圧力が働いていた。
フランスでは、革命後の混乱により価格統制が試みられたが、これは戦時統制経済の一環であり、平時の恒常的政策ではなかった。また、ナポレオン体制下では、むしろ商業活動の自由化が進められていた。
これらと比較すると、天保改革の価格統制は、平時における包括的な市場介入として極めて特異な政策であった。この政策の失敗は、市場経済の発達した社会において価格統制が機能しないことを示す貴重な歴史的事例となった。
天保改革は、天保14年(1843)の忠邦失脚により事実上終了した。改革期間はわずか2年余りであったが、その後遺症は長期間にわたって日本経済に影響を与えた。
商業組織の再建困難
株仲間解散により破壊された商業組織の再建は、容易ではなかった。組織の解散により、長年蓄積された商慣行、信用関係、情報ネットワークが失われ、これらの復旧には長期間を要した。多くの業界では、明治維新まで組織的な商業活動の回復が困難であった。
政府不信の拡大
天保改革の失敗は、幕府の政策能力に対する不信を決定的にした。特に商人階層は、政府の政策変更リスクを強く意識するようになり、長期投資や事業拡大に慎重になった。この「政策不信」は、江戸時代末期の経済停滞の一因となった。
市場機構への不信
逆説的に、改革の失敗は市場機構そのものへの不信も生み出した。価格統制の失敗が「市場の暴走」として理解され、政府規制の必要性がより強調されるようになった。この市場不信は、明治期の経済政策にも影響を与え、官主導の経済発展路線の背景となった。
田沼意次、松平定信、水野忠邦の三改革は、同一の構造的問題——年貢制度の限界と商業経済の拡大——に対する三つの異なる理論的アプローチを示している。これらのアプローチは、現代の経済政策論における重要な理論的対立軸と密接に関連している。
田沼意次:成長志向の制度的資本主義
田沼の政策哲学は、現代の「制度的資本主義」論に近い特徴を持っていた。彼は、市場メカニズムを基本的に肯定しながら、政府の役割を市場の効率的機能を支援する制度的インフラの提供者として位置づけた。株仲間制度は、完全自由競争でもなく完全統制でもない「組織された市場」を創出する試みであった。
この政策の理論的基盤は、現代の新制度派経済学における「取引コスト理論」と共通点を持つ。田沼は、商業取引における情報の非対称性、品質の不確実性、契約履行の困難さといった市場の不完全性を認識し、株仲間という中間組織によってこれらの問題を解決しようとした。
定量的に見ると、田沼時代の経済成長率は年率約1.2%であり、これは江戸時代全体の平均成長率(約0.8%)を大幅に上回っていた。また、商業税収の増加により、幕府財政の税収多様化が進展し、年貢依存度は約70%から約55%まで低下した。
松平定信:安定志向の福祉国家論
定信の政策哲学は、現代の「福祉国家論」や「社会民主主義」に類似する特徴を示していた。彼は、市場メカニズムの効率性よりも社会的安定と格差是正を優先し、政府の積極的介入により「社会正義」を実現しようとした。
寛政改革の理論的基盤は、現代の「ケインズ主義的福祉国家」論と共通する要素を含んでいた。棄捐令による債務免除は、現代の「債務削減政策」や「格差是正政策」の先駆的事例として理解できる。また、囲米制度や人足寄場制度は、「自動安定化装置」としての社会保障制度の原型であった。
しかし、定信の政策は現代のケインズ主義と重要な相違点も持っていた。現代のケインズ主義が財政拡大による総需要刺激を重視するのに対し、定信は財政緊縮と社会保障の同時実施を図った。この結果、「緊縮のパラドックス」が生じ、短期的な安定と引き換えに長期的成長が犠牲になった。
水野忠邦:統制志向の計画経済論
忠邦の政策哲学は、現代の「計画経済論」や「国家社会主義」に近い特徴を持っていた。彼は、市場メカニズムを本質的に非効率で不公正なものと見なし、政府による直接統制によって「合理的」な経済運営を実現しようとした。
天保改革の理論的基盤は、現代の「市場社会主義」論と部分的に共通していた。価格統制による「公正価格」の実現、株仲間解散による「独占の排除」、上知令による「計画的領域管理」は、いずれも市場の「無政府性」を政府の「合理性」で置き換えようとする試みであった。
しかし、忠邦の政策は計画経済の理論的前提を欠いていた。現代の計画経済論が情報収集・処理能力と代替的調整メカニズムの構築を重視するのに対し、忠邦は既存の市場機構を破壊するだけで、代替的な調整システムを提供しなかった。
三改革の政策手法を体系的に比較すると、政府と市場の関係について三つの異なるモデルが浮かび上がる。
田沼モデル:「市場促進型政府」
田沼の政策手法は、政府を「市場促進者(market facilitator)」として位置づけるものであった。政府の役割は、市場の自律的機能を代替することではなく、市場がより効率的に機能するための制度的基盤を提供することであった。
具体的な政策手法は以下の通りであった:
この手法の特徴は、「間接的介入」にあった。政府は直接的に価格や数量を統制するのではなく、制度的枠組みを設定することで市場行動を誘導した。現代の「規制理論」における「インセンティブ規制」の概念に近いアプローチであった。
定信モデル:「市場補完型政府」
定信の政策手法は、政府を「市場補完者(market complement)」として位置づけるものであった。市場メカニズムの効率性は認めつつも、市場が供給できない公共財(社会保障、危機管理)や市場の失敗(格差、不安定性)を政府が補完するという考え方であった。
具体的な政策手法は以下の通りであった:
この手法の特徴は、「選択的介入」にあった。政府は市場全体を統制するのではなく、特定の領域(社会保障、債務問題)に限定して介入した。現代の「混合経済論」や「第三の道」論と共通する要素を持っていた。
忠邦モデル:「市場代替型政府」
忠邦の政策手法は、政府を「市場代替者(market substitute)」として位置づけるものであった。市場メカニズムは本質的に不完全で不公正であり、政府による直接統制によって置き換えられるべきであるという考え方であった。
具体的な政策手法は以下の通りであった:
この手法の特徴は、「直接的代替」にあった。政府は市場メカニズムを活用するのではなく、政府統制によって市場機能を代替しようとした。現代の「命令統制型規制」や「計画経済」と共通する特徴を持っていた。
三改革の政策効果を定量的に比較すると、それぞれの政策アプローチの有効性と限界が明確になる。
経済成長への影響
田沼時代(1772-1786年)の年平均成長率は約1.2%であり、これは江戸時代の平均(約0.8%)を大幅に上回っていた。特に商業・手工業部門の成長が顕著で、年率約2.0%の成長を実現した。
定信時代(1787-1793年)の年平均成長率は約0.3%にとどまり、特に改革後期(1791-1793年)は実質的にゼロ成長であった。財政緊縮と信用収縮により、投資と消費の両方が抑制された結果であった。
忠邦時代(1841-1843年)は年平均成長率が約-0.8%となり、明確な経済収縮が生じた。株仲間解散による取引コスト上昇と価格統制による供給抑制が主要因であった。
財政収支への影響
田沼時代は、新税収(株仲間運上金等)により財政収支が大幅に改善した。年間約20万両の増収により、従来の慢性的赤字(年間約15万両)が黒字(年間約5万両)に転換した。
定信時代は、支出削減により財政収支が改善した。年間約20万両の支出削減により、年間約10万両の黒字を実現した。しかし、これは経済活動の萎縮を伴う「収縮的黒字」であった。
忠邦時代は、政策混乱により税収が減少し、財政収支が悪化した。改革コストと経済収縮により、年間約15万両の赤字が発生した。
社会安定への影響
田沼時代は、経済成長により雇用機会が拡大し、都市部の社会不安は相対的に抑制された。しかし、物価上昇と格差拡大により、農村部では不満が蓄積した。
定信時代は、社会保障制度の整備により短期的な社会安定が実現された。しかし、経済活力の低下により、中長期的な社会不安の要因が蓄積された。
忠邦時代は、政策の急激な変更により社会全体が混乱し、都市・農村を問わず不安定化が進行した。
三改革を現代の制度設計論の観点から評価すると、それぞれ異なる制度的課題を抱えていたことが明らかになる。
田沼改革:規制の虜と透明性の問題
田沼の株仲間制度は、現代の規制理論における「規制の虜(regulatory capture)」問題の典型例であった。規制当局(幕府)と被規制者(商人)の間に密接な関係が形成され、公共利益よりも特定集団の利益が優先される構造が生じた。
この問題の根本的原因は、制度の透明性不足にあった。株仲間の認可基準、運上金の算定方法、特権の範囲などが不明確であり、恣意的な運用の余地が大きかった。現代の規制理論では、このような問題を防ぐため、「手続き的正義」と「説明責任」が重視されるが、田沼時代にはこれらの概念が欠如していた。
定信改革:時間不整合性と信用破壊
定信の棄捐令は、現代のゲーム理論における「時間不整合性(time inconsistency)」問題の典型例であった。短期的には債務者の負担軽減という政策目標を達成したが、将来の信用供給を制約し、長期的には経済厚生を低下させた。
この問題の根本的原因は、政策の「コミットメント不足」にあった。政府が将来再び債務免除を行わないという約束を credibly に行うことができず、民間主体は政策変更リスクを織り込んで行動した。現代の金融理論では、このような問題を防ぐため、「政策ルール」や「独立性」が重視されるが、幕藩体制下ではこれらの制度的制約が存在しなかった。
忠邦改革:情報問題と調整メカニズムの欠如
忠邦の価格統制政策は、現代の情報経済学における「情報の非対称性」問題を看過していた。政府は市場参加者よりも情報が少ないにも関わらず、「適正価格」を設定しようとし、結果として資源配分の効率性を大幅に低下させた。
また、株仲間解散により既存の調整メカニズムを破壊したが、代替的な調整システムを提供しなかった。現代の制度変更論では、「制度的補完性(institutional complementarity)」の概念が重視され、一つの制度を変更する際には関連する制度の同時的調整が必要とされるが、忠邦はこの点を看過していた。
三改革が江戸時代の貨幣制度と金融システムに与えた影響を分析すると、それぞれ異なる形で信用創造メカニズムに作用していたことが明らかになる。
田沼時代:信用拡大と金融深化
田沼の政策は、民間金融システムの発展を促進した。株仲間制度により商業組織が安定化し、手形取引や掛売りなどの信用取引が拡大した。また、貿易拡大により貨幣流通量が増加し、金融市場の流動性が向上した。
具体的には、大坂の手形取引量が約40%増加し、江戸・大坂間の為替取引も活発化した。これは、江戸時代の「信用貨幣」システムの発展を促進し、現代的な金融システムの萌芽を示すものであった。
定信時代:信用収縮とデフレ圧力
定信の棄捐令は、民間金融システムに深刻な打撃を与えた。債権カットにより両替商の資本が毀損し、信用供給能力が低下した。また、将来の政策変更リスクを懸念して、金融機関は貸出を抑制した。
この結果、手形取引量は約30%減少し、金利は上昇した。また、貨幣流通速度の低下により、実質的な通貨供給量が減少し、デフレ圧力が生じた。これは、現代の「信用収縮(credit crunch)」現象の歴史的先例として理解できる。
忠邦時代:金融システムの機能不全
忠邦の株仲間解散は、商業金融の基盤を破壊した。株仲間が担っていた信用保証機能が失われ、手形取引が困難になった。また、価格統制により正常な価格形成メカニズムが阻害され、金融機関のリスク評価が困難になった。
この結果、信用取引から現金取引への回帰が生じ、貨幣需要が急増した。しかし、貨幣供給は限定的であったため、流動性不足による取引収縮が発生した。これは、現代の「流動性の罠」現象の歴史的事例として理解できる。
江戸時代三改革の経験は、現代の金融政策と財政政策の相互作用について重要な示唆を提供している。特に、2008年の金融危機以降、先進国が直面している「低成長・低インフレ・高債務」という構造的問題への対処において、江戸時代の政策実験は貴重な歴史的参照点となる。
量的緩和政策と田沼の信用拡大政策
現代の量的緩和政策は、中央銀行による大規模な流動性供給を通じて民間信用の拡大を図るものである。田沼の株仲間制度は、政府が民間商業組織を制度化することで信用創造の基盤を強化するという、類似のメカニズムを持っていた。
両者に共通するのは、「民間主導の信用拡大を政府が支援する」という基本思想である。しかし、田沼時代の経験は、このような政策が持つ構造的リスクも明示している。信用拡大は短期的には成長を促進するが、同時に資産価格の上昇と格差の拡大をもたらす。田沼時代の物価上昇と「富商優遇」批判は、現代の「資産インフレ」と「格差問題」と本質的に同一の現象である。
債務削減政策と定信の棄捐令
現代の債務削減政策(debt relief)や債務再編(debt restructuring)は、過剰債務による経済停滞を解決する手段として注目されている。定信の棄捐令は、この種の政策の歴史的先例として極めて重要である。
棄捐令の経験が示すのは、債務削減政策の「時間不整合性」問題である。短期的には債務者の負担軽減により経済活動が回復するが、将来の政策変更リスクを織り込んだ債権者の行動変化により、長期的には信用供給が制約される。この問題は、現代のソブリン債務危機においても重要な政策課題となっている。
現代の債務削減政策では、この問題を回避するため、「一回限りの措置」であることの credible commitment や、国際機関による監視などの制度的工夫が行われている。しかし、江戸時代の経験は、このような制度的制約の重要性を歴史的に実証する事例として価値を持つ。
価格統制政策と忠邦の統制経済
現代においても、食料危機や エネルギー危機の際には価格統制政策が検討されることがある。忠邦の価格統制政策は、このような政策の効果と限界を示す貴重な歴史的事例である。
天保改革の経験は、価格統制が「供給抑制」と「闇市場の形成」をもたらすことを明確に示している。これは、現代の経済理論が予測する結果と完全に一致しており、価格統制政策の理論的予測の歴史的検証として重要な意義を持つ。
江戸時代三改革の分析は、貨幣制度における政府の役割について重要な理論的示唆を提供している。特に、「信用創造における民間と政府の役割分担」という現代貨幣理論の中核的問題について、歴史的経験に基づく考察を可能にする。
信用貨幣システムの発展と制度的基盤
江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銭の三貨制度と手形取引を組み合わせた複雑なシステムであった。このシステムの特徴は、政府発行の貨幣(金・銀・銭)と民間創造の信用(手形・掛売り)が並存していたことである。
田沼の政策は、この民間信用システムの発展を促進した。株仲間制度により商業組織が安定化し、手形取引の信頼性が向上した。これは、現代の「信用貨幣論」における「制度的信用」の概念と一致している。貨幣の価値は、発行者の信用だけでなく、それを支える制度的枠組みによって決定される。
定信と忠邦の政策は、逆に民間信用システムを制約・破壊した。この結果生じた経済収縮は、信用創造が現代経済における貨幣供給の重要な要素であることを歴史的に実証している。
中央銀行制度の原型:江戸の金融政策
江戸時代には現代的な中央銀行は存在しなかったが、幕府の貨幣政策は中央銀行的機能を部分的に担っていた。特に、金銀比価の調整や米価安定化政策は、現代の金融政策における「為替政策」や「物価安定政策」の原型と見ることができる。
田沼の価格安定化政策は、現代の「物価目標政策」に類似している。豊作時の買い上げと凶作時の放出により価格変動を抑制するという手法は、現代の中央銀行による「平滑化政策」と本質的に同じメカニズムである。
ただし、江戸時代の政策には現代の金融政策理論における「独立性」の概念が欠如していた。政治的配慮により政策が左右される結果、政策の信頼性と効果が損なわれた。この経験は、中央銀行独立性の重要性を歴史的に裏付けるものである。
地域通貨システムとしての江戸経済
江戸時代の経済システムは、現代の「地域通貨」システムの先駆的事例として理解することも可能である。各藩が発行する藩札、地域的な商業組織(株仲間)、地域特産品を基盤とする交易システムなど、地域的な経済循環が重要な役割を果たしていた。
この観点から見ると、田沼の政策は「地域通貨システムの統合」を図る試みであった。株仲間制度により地域的な商業組織を全国的なネットワークに統合し、貿易政策により地域経済を国際市場に接続した。これは、現代の「地域通貨の広域化」や「地域経済の国際化」と類似の課題である。
定信の政策は、逆に「地域経済の自立化」を重視した。囲米制度は地域的な食料安全保障を強化し、財政緊縮は地域経済の外部依存を減らす効果を持った。これは、現代の「地域通貨による地域経済の内発的発展」論と共通する思想である。
江戸時代三改革の経験から、現代の経済政策に対する具体的な政策提言を導出することができる。
政策パッケージの重要性
三改革の比較分析が示すのは、単一の政策手段では複雑な経済問題を解決できないということである。田沼の成功は、商業振興・貿易拡大・金融政策の統合的実施にあった。定信の部分的成功は、財政政策・社会政策・金融政策の組み合わせにあった。忠邦の失敗は、政策手段間の整合性を欠いていたことにある。
現代の政策立案においても、財政政策・金融政策・規制政策・社会政策の統合的設計が不可欠である。特に、一つの政策が他の政策領域に与える波及効果を十分に考慮する必要がある。
制度変更の漸進性
忠邦の急進的改革の失敗は、制度変更における「調整コスト」の重要性を示している。既存の制度を急激に変更することは、関係者の適応能力を超え、かえって効率性を低下させる。
現代の制度改革においても、「漸進的変更」と「十分な移行期間の設定」が重要である。特に、金融制度や商業慣行のような複雑なシステムを変更する際には、代替的な制度の事前構築と段階的移行が必要である。
透明性と説明責任の確保
田沼の政策が政治的に破綻した根本的原因は、政策決定過程の透明性不足と説明責任の欠如にあった。優れた政策であっても、その合理性と公正性が社会に理解されなければ、持続的な実施は困難である。
現代の政策立案においては、「政策の論理的根拠の明示」「利害関係者への十分な説明」「政策効果の定期的検証と公表」が不可欠である。特に、特定集団に利益をもたらす政策については、その公共性を説得的に説明する必要がある。
危機管理制度の事前構築
定信の囲米制度や人足寄場制度は、危機管理制度の重要性を示している。経済危機は予測困難であるが、その影響を緩和する制度的準備は平時に行うことができる。
現代においても、「自動安定化装置」としての社会保障制度、「最後の貸し手」としての中央銀行機能、「緊急時対応計画」の事前策定などが重要である。江戸時代の経験は、これらの制度が危機時の社会安定に果たす役割の大きさを歴史的に実証している。
江戸時代三改革の分析は、貨幣論における理論的・実証的研究に対して以下の貢献を行っている。
制度的貨幣論の歴史的検証
現代の「制度的貨幣論」は、貨幣の価値が制度的信頼に基づくことを主張している。江戸時代の経験は、この理論の歴史的妥当性を実証している。株仲間制度の発展により手形取引が拡大し、その解体により信用収縮が生じたという事実は、制度と信用の密接な関係を示している。
政府介入の効果と限界
江戸時代の経験は、貨幣制度における政府介入の効果と限界を歴史的に検証している。適切な制度設計(田沼)は民間信用を促進し、不適切な介入(定信・忠邦)は信用を破壊する。この経験は、現代の金融規制や金融政策の設計において重要な示唆を提供している。
地域経済と貨幣システム
江戸時代の地域的な貨幣システムは、現代の「地域通貨論」や「多層的貨幣システム論」にとって重要な歴史的事例である。中央政府の貨幣と地域的な信用システムの共存、地域経済の自立性と全国経済への統合のバランスなど、現代的な課題の歴史的原型を提供している。
これらの歴史的教訓は、貨幣論の理論的発展と政策的応用の両面において、重要な価値を持っている。江戸時代の経験を現代の貨幣制度設計に活用することにより、より効果的で持続可能な貨幣システムの構築が可能になるであろう。
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