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PICSY(Propagational Investment Currency SYstem:伝播投資貨幣システム)は、鈴木健が東京大学博士論文(2008年)で提唱し、『なめらかな社会とその敵』(2013年)で発展させた革新的な貨幣システム設計である。PICSYの根本的な発想は、従来の「決済貨幣」が取引によって関係性を切断するのに対し、取引によって関係性を新たに構築する「投資貨幣」を実現することにある。
通常の貨幣システムでは、取引の完了は「決済」と呼ばれ、これは貸借関係を解消することを意味する。売り手と買い手は商品と貨幣を交換することで、取引関係を終了させる。しかし、PICSYでは売り手が買い手に商品を売ることは、その商品を「現物投資」することに相当し、人から人へと価値が伝播し、関係が切れずにその後の効果がフィードバックされてくるという根本的に異なる性質を持つ。
PICSYが対象とする根本的な問題は、従来の貨幣システムでは適切に評価されない価値の存在である。高齢者の介護、子どもの教育、基礎研究、環境保全、芸術創作といった活動は、その社会的価値にもかかわらず、市場での適切な経済的評価を受けにくい。
鈴木健は、貨幣の本質を以下の2点に集約している:
重要なのは、貨幣が本来「フローベース」の価値であることの認識である。実体的な使用価値がなくとも、「次の取引で受け取られる」というフローへの期待によって価値が保たれる。しかし、恐慌時に明らかになるように、人々はフローベースの価値であるにもかかわらず、貨幣そのものに実体として価値があるかのように信じるようになる。
LETS(Local Exchange Trading System)に代表される地域通貨は、フローベースであることを利用者が常に意識できる通貨だが、既存通貨の「補完通貨」にとどまる。PICSYは、フローベースであると同時に「代替通貨」としての特徴を持つ設計を目指している。
PICSYの基本的なアイデアは、サプライチェーンの逆方向への価値伝播にある。商品は別の商品の材料として用いられることで価値を生成するため、組み込まれた商品の価値の一部は、材料として用いられた商品によって生まれたものである。そうであるならば、サプライチェーンとは逆の方向に取引価値が伝播すれば、より高い価値を生み出した中間財には高い価値があると認められることになる。
例えば、AさんがBさんに0.2で商品を販売し、BさんがCさんに加工した商品を0.3で販売した場合、0.06が逆伝播するようなシンプルなケースが考えられる。
ループのある複雑な取引ネットワークを想定するときは、N×Nの行列を考えることによって、このアイデアを拡張できる。取引関係の行列から固有ベクトルを求め、その値を個々人が社会に与えた貢献度と解釈し、そこに購買力を与えることができる。
PICSYでは、すべての取引が投資としての性格を持つ。売り手は現物出資の投資家となるため、「すべてが投資の貨幣」といってもよい。
鈴木健が示した象徴的な例:プロ野球のイチロー選手が高校時代に毎日食べていた焼き肉屋があったとしよう。その焼き肉はイチローの体を作ってきたわけであるから、年に数十億円を稼ぐイチローの収入の一部が分配されてもいいはずだ。いわば、焼き肉が現物出資としてイチローに出資されたと考えて、その投資の収益が得られたといってもよい。
PICSYシステムの数学的基盤は、各人から各人への取引履歴を確率行列として表現することにある。N人の参加者からなるシステムにおいて、取引履歴行列Eは以下の条件を満たす:
\(E_{ij} \geq 0 \text{ for all } i, j\) \(\sum_{j=1}^{N} E_{ij} = 1 \text{ for all } i\)
ここで、$E_{ij}$は参加者iから参加者jへの取引の累積比率を表す。この行列は確率行列(stochastic matrix)の性質を持ち、各行の要素の和が1になる。
この確率行列のフロベニウス根(Frobenius root)は1であり、対応する固有ベクトル$\bar{c}$は以下の関係を満たす:
\[\bar{c}\mathbf{E} = \bar{c}\]このユークリッドノルムを1に正規化した固有ベクトルに定数μを掛けて、全要素の和がNになるように調整したベクトルcを「貢献度ベクトル(Contribution Vector)」と定義する:
\(\mathbf{c} = \mu\bar{c}\) \(\sum_{i=1}^{N} c_i = N\)
貢献度ベクトルの各要素$c_i$は、参加者iの社会全体への貢献度を表す指標として解釈される。これは、GoogleのPageRankアルゴリズムと類似した構造を持つが、Webページの重要度ではなく、経済主体の社会的貢献度を測定する。
静的な貢献度ベクトルを実際の貨幣システムとして機能させるため、PICSYでは動的な取引概念を導入する。各参加者は対角行列成分$E_{ii}$を予算制約として持ち、この予算から売り手への支払いを行う。
取引が行われると予算制約は減少するが、以下の行列変換により貢献度ベクトルを変化させることなく、全メンバーの予算制約を定期的に増加させることができる:
\(E_{bb}(t+1) = E_{bb}(t) + \gamma(1 - E_{bb}(t))\) \(E_{bj}(t+1) = (1-\gamma)E_{bj}(t) \text{ for all } j \neq b\)
ここで、γは予算回復率を表すパラメータである。この変換により、参加者bの自己取引比率(予算制約)が増加し、他の参加者への取引比率が比例的に減少するが、固有ベクトル(貢献度ベクトル)は不変に保たれる。
PICSYシステムにおいて新しいメンバーzが参加する場合、以下の行列変換により既存の貢献度ベクトルを保持しながらシステムを拡張できる:
新しい行列$\mathbf{E}^{z=1}$は、既存のN×N行列を(N+1)×(N+1)行列に拡張し、パラメータxを用いて新メンバーとの取引関係を定義する。この変換の数学的詳細は複雑であるが、重要な点は固有ベクトルの性質が保持されることである。
さらに重要な概念として、PICSYでは「カンパニー」という仕組みを導入している。これにより、個人だけでなく組織も参加者として扱うことができる。カンパニーを含む拡張行列は、「仮想解体」と呼ばれる操作により、人だけの行列に変換可能である。これにより、現代的で複雑な経済活動——法人組織、株式会社、非営利組織など——をPICSYシステム内で表現できる。
鈴木健の博士論文では、PICSYの実装について3つの異なる方法を提案し、数理的比較を行っている:
1. 自己評価法(Self-Evaluation Method) 参加者が自分自身の貢献度を評価し、それを基に取引を行う方法。最もシンプルだが、客観性に課題がある。
2. 中央銀行法(Central Bank Method) 中央機関が全体の取引を監視し、貢献度を計算・配布する方法。客観性は高いが、中央集権的な管理が必要。
3. 仮想中央銀行法(Virtual Central Bank Method) 分散的なアルゴリズムにより、中央機関なしに貢献度を計算する方法。分散性と客観性を両立する。
論文では、総合的な評価として仮想中央銀行法が最も優れているとの結論を導いている。この方法は、ブロックチェーン技術の普及以前に提案された分散システム設計として、現代の暗号通貨システムを先取りした洞察を含んでいる。
仮想中央銀行法の詳細メカニズム:
仮想中央銀行法では、予算制約を行列の対角成分$E_{ii}$として扱い、貢献度ベクトルを計算する際に、この対角成分(自己評価)を他の人々への評価へ配分する。具体的には:
仮想中央銀行Bの定義: \(\mathbf{B} = \begin{pmatrix} E_{11} & 0 & \cdots & 0 \\ 0 & E_{22} & \cdots & 0 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ 0 & 0 & \cdots & E_{NN} \end{pmatrix}\)
分配行列Dの定義: \(\mathbf{D} = \begin{pmatrix} 0 & 1 & \cdots & 1 \\ 1 & 0 & \cdots & 1 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ 1 & 1 & \cdots & 0 \end{pmatrix}\)
新しい評価行列E’の計算: \(\mathbf{E}' = E - B + \frac{BD}{N-1}\)
この分配行列Dは「ソーシャルミニマム」を実現し、すべての参加者が最低限の評価を受けることを保証する。
取引と自然回収のメカニズム:
取引時に、買い手bが売り手sに予算制約からαを支払う: \(E_{bb}^{t+1} = E_{bb}^t - \alpha\) \(E_{bs}^{t+1} = E_{bs}^t + \alpha\)
取引により予算制約が減少するため、「自然回収」と呼ばれる定期的な予算回復操作を行う: \(E_{bj}^{t+1} = (1-\gamma)E_{bj}^t \text{ for all } (j, b)\) \(E_{bb}^{t+1} = E_{bb}^t + \gamma(1-E_{bb}^t) \text{ for all } (j, b)\)
重要なのは、この自然回収の前後で貢献度ベクトルが不変であることである。
定価と購買力の関係:
売り手の購買力増分を定価として考えると、$\delta = \alpha c_b$という関係式が成立し、買い手の購買力は$E_{bb}c_b$となる。この仕組みにより、貢献度の高い人の支払いほど高い価値を持つ。
実際のシステムでは、悪意のある評価や誤った評価を適切に除外する必要がある。PICSYでは、頑健統計(robust statistics)の手法を用いて、異常値の影響を軽減する。
具体的には、以下の手法が採用される:
これらの手法により、システムは悪意のある攻撃や評価の偏りに対して一定の耐性を持つ。
PICSYシステムの重要な脆弱性の一つは、Sybil攻撃である。これは、単一の攻撃者が複数の偽のアイデンティティを作成し、システムを操作しようとする攻撃である。
この問題に対処するため、PICSYでは以下の対策が提案されている:
Web of Trust:参加者間の信頼関係を明示的にモデル化し、信頼のネットワークを通じてのみ評価を受け付ける。これにより、孤立した偽アカウントの影響を軽減する。
Proof of Work/Stake:参加者に一定のコスト(計算資源や資産の拠出)を要求することで、偽アカウントの大量作成を困難にする。
行動分析:評価パターンの統計的分析により、人工的なアカウントを検出する。真の人間は複雑で予測困難な評価パターンを示すが、自動化されたアカウントは規則的なパターンを示す傾向がある。
段階的信頼構築:新規参加者の評価重みを初期は低く設定し、システムへの貢献に応じて徐々に重みを増加させる。
PICSYは、「すべての個人が自分株を発行し、その自分株を使って取引を行う」システムとして理解できる。この視点から見ると:
PICSYは、納得感が高く、より公平な貨幣システムであると同時に、価値が組織の壁を超えて伝播するため、組織の仮想化をもたらす。すなわち、世界規模の人事評価システムを貨幣システムとして実現している。
この特性により:
ただし、PICSYが国際通貨として機能するためには、「社会サブシステムの生態系との関係」を考慮する必要があり、完全な実現には数百年を要する可能性がある。
PICSYを国家通貨や国際通貨として利用するには長期間を要するが、比較的すぐに実用可能な応用分野として、以下が挙げられる:
これらの限定的な応用を通じて、PICSYの有効性を検証し、段階的に適用範囲を拡大していくアプローチが現実的である。
鈴木健の博士論文では、PICSYシステムの以下の課題が明確に指摘されている:
解決が必要な課題:
結論が出ていない課題:
期待される効果:
PICSYの理論が実際に応用された重要な事例として、株式会社はてなでの人事評価システムがある。2005年から導入されたこのシステムでは、以下の仕組みが採用されている:
この実装は、PICSYの理論的枠組みを企業組織内で具現化した先駆的な試みである。経営陣からは高い評価を得ているものの、興味深い課題も浮き彫りになった:
成果:
課題:
この事例は、PICSYが単なる理論ではなく実装可能なシステムであることを実証すると同時に、人間の心理的側面や組織文化との相互作用という重要な課題を明らかにした。
PICSYシステムが実際に人間にとって理解可能で利用可能であるかを検証するため、鈴木健らは「貿易ゲーム」を用いたワークショップを開発した。このゲームでは:
ゲーム設定:
教育効果:
この教育プログラムは、PICSYの概念が年齢に関係なく理解可能であることを示し、将来的な社会実装における教育・普及の可能性を示唆している。
鈴木健の論文では、PICSYの本質を説明する印象的な思考実験が提示されている:
プロ野球のイチロー選手が高校時代に毎日食べていた焼き肉屋があったとしよう。その焼き肉はイチローの体を作ってきたわけであるから、年に数十億円を稼ぐイチローの収入の一部が分配されてもいいはずだ。いわば、焼き肉が現物出資としてイチローに出資されたと考えて、その投資の収益が得られたといってもよい。
この思考実験は、PICSYの核心概念を端的に表している:
この例は、PICSYが単なる決済システムではなく、価値創造の歴史性と相互依存性を認識する新しい経済パラダイムであることを明確に示している。
PICSYシステムの理解において重要なのは、これが従来の「決済貨幣」から「投資貨幣」への根本的なパラダイム転換を提案していることである。
核心的概念:
社会的意義:
実装の現実性:
PICSYは300年後の社会を想定した壮大な構想であると同時に、現在でも部分的に実装可能な具体的なシステム設計である。技術的実現可能性と社会的変革の両面を併せ持つ、21世紀の貨幣論における重要な提案として位置づけられる。
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