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第20章:トマ・ピケティ——21世紀における資本と格差の貨幣論的分析

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17.1 歴史的文脈:なぜ21世紀に格差論が必要となったのか

トマ・ピケティ(Thomas Piketty, 1971-)の登場は、20世紀末から21世紀初頭にかけての特殊な歴史的状況と密接に関連している。1970年代のスタグフレーション以降、新自由主義的政策が世界的に採用され、金融市場の自由化と規制緩和が進展した。同時に、情報技術革命により金融取引の高速化と複雑化が進み、資本の国際的移動が加速した。

この時代背景において、従来の経済学では十分に説明できない現象が顕在化した。それは、経済成長が続いているにもかかわらず、所得格差が拡大し続けるという現象である。特に、1980年代以降のアメリカにおいて、上位1%の所得シェアが急激に上昇し、1920年代以来の水準に達した。この現象は、効率的市場仮説や「滴り落ち効果」(trickle-down effect)といった新古典派経済学の予測と明らかに矛盾していた。

ピケティは、この問題に対して全く新しいアプローチを提示した。従来の経済学が短期的な景気循環や市場の効率性に焦点を当てていたのに対し、彼は18世紀以降の長期的な歴史データを体系的に収集し、資本主義経済の長期動学を分析したのである。この手法により、格差の拡大が一時的な現象ではなく、資本主義システムに内在する構造的特徴であることが明らかになった。

17.2 r > g の法則:資本主義の根本的矛盾

ピケティの中心的な発見である「r > g」の関係は、単なる統計的観察を超えた、資本主義経済の本質的な矛盾を表している。ここで r は資本収益率(年間の利潤、配当、利子、賃料などの資本所得を資本総額で除したもの)を、g は経済成長率(年間のGDP成長率)を表す。

この関係が格差拡大をもたらす論理は以下の通りである。資本収益率が経済成長率を上回る場合、資本所有者の富は経済全体よりも速いペースで増加する。例えば、経済成長率が年2%である一方、資本収益率が年5%であるとしよう。この場合、100万円の資本を持つ者は毎年5万円の資本所得を得る一方、100万円の年収を得る労働者の所得は年2万円しか増加しない。10年後には、資本所有者の資産は163万円となるが、労働者の年収は122万円にしかならない。

歴史的データによれば、この「r > g」の関係は決して例外的な現象ではない。ピケティの分析によると、18世紀から19世紀にかけて、資本収益率は年4-5%で推移していたのに対し、経済成長率は年1-1.5%程度であった。この差は、当時の資本家階級が労働者階級に対して圧倒的な経済的優位を築く基盤となった。

興味深いことに、この関係が一時的に逆転したのは、20世紀の二度の世界大戦と戦後復興期である。戦争による物理的破壊、高いインフレ率、累進課税の導入により、資本収益率は大幅に低下し、一方で戦後復興による高度成長により経済成長率が上昇した。1950年代から1970年代にかけて、多くの先進国で「g > r」の関係が成立し、これが戦後の「黄金の30年間」における格差縮小の主要因となった。

しかし、1980年代以降、この関係は再び「r > g」に戻った。金融市場の発達により資本はより効率的に運用されるようになり、一方で先進国の経済成長率は人口減少と技術革新の鈍化により低下傾向を示した。現在、多くの先進国で資本収益率は年4-6%で推移している一方、経済成長率は年1-2%程度にとどまっている。

17.3 貨幣資産と実物資産の収益率格差

ピケティの分析において特に重要なのは、異なる種類の資産が示す収益率の格差である。現金や普通預金といった流動性の高い貨幣資産は、一般に低い収益率しか提供しない。例えば、日本の普通預金金利は長期間にわたって年0.001%程度で推移している。これは、インフレ率(年1-2%)を大幅に下回る水準であり、実質的には資産価値が目減りしていることを意味する。

一方、株式や不動産といった実物資産は、長期的には高い収益率を実現する傾向がある。東京証券取引所の株価指数(TOPIX)は、1970年から2020年までの50年間で年平均約6%の収益率を示している。また、東京都心部の優良不動産は、同期間において年平均4-5%の収益率(賃料収入と資産価値上昇の合計)を実現している。

この収益率格差は、資産保有構造の違いによって格差を拡大させる。富裕層は資産の大部分を株式や不動産で保有する傾向があるのに対し、中低所得層は現預金の比率が高い。日本銀行の資金循環統計によれば、家計金融資産に占める現預金の比率は、所得下位20%では80%以上である一方、所得上位5%では40%程度にとどまっている。

この構造的な違いは、金融政策の効果を階層によって大きく異なるものにする。量的緩和政策により株価や不動産価格が上昇した場合、その恩恵を受けるのは主に富裕層である。一方、低金利政策により預金金利が低下した場合、その負の影響を最も強く受けるのは預金に依存する中低所得層である。

17.4 相続制度と富の世代間移転

ピケティの分析が明らかにしたもう一つの重要な発見は、相続制度が現代の格差拡大に果たす決定的な役割である。「r > g」の関係が持続する環境では、過去に蓄積された富が新たに創造される富よりも速く成長するため、相続による富の移転が社会全体の富の分配構造を決定する主要因となる。

この現象を具体的に理解するために、以下のような例を考えてみよう。ある富裕な家庭が1億円の資産を保有し、これを年5%で運用しているとする。一方、中間層の家庭では両親が生涯にわたって労働により蓄積できる純資産が3000万円程度であるとする。30年後、富裕な家庭の資産は複利効果により約4.3億円に増加する。この時点で相続が発生した場合、相続税を考慮しても子世代は3億円以上の資産を継承することになる。

一方、中間層の家庭では、子世代が大学教育を受け、住宅を購入し、老親の介護費用を負担した後に継承できる資産は、せいぜい数百万円程度である。このように、一世代の間に両階層の資産格差は10倍以上に拡大する可能性がある。

フランスの税務データを用いたピケティの分析によれば、現在の相続資産が国民所得に占める比率は、1950年代の約4%から2010年代の約15%まで上昇している。この趋勢が続けば、2050年頃には相続資産の比率は20-25%に達する可能性がある。これは、19世紀末の水準(約25%)に近づく数字である。

この現象は、現代社会における「能力主義的幻想」に対する根本的な挑戦を意味する。教育制度や就職市場において機会平等が実現されたとしても、相続による初期条件の格差が拡大し続ける限り、結果の平等は達成されない。むしろ、教育投資の収益率自体が家庭の経済的背景に依存するため、格差は世代を超えて再生産される構造が強化される。

17.5 金融化と資本の質的変容

20世紀後半以降の金融化(financialization)は、ピケティの格差分析において極めて重要な要素である。なぜなら、金融化は資本の性質そのものを根本的に変容させ、「r > g」の関係をより複雑で不安定なものにしたからである。

金融化の最も顕著な特徴は、実体経済に対する金融部門の相対的規模の拡大である。アメリカにおいて、金融部門の付加価値がGDPに占める比率は、1950年代の約2.5%から2000年代には8%以上まで上昇した。同様に、金融部門の利潤が企業利潤全体に占める比率も、1950年代の約10%から2000年代には約40%まで拡大した。

この変化が格差に与える影響は多面的である。第一に、金融商品の多様化により、富裕層はより高度な資産運用戦略を採用できるようになった。ヘッジファンドやプライベート・エクイティといった代替投資商品は、年10-15%という高い収益率を実現する一方、最低投資額が数千万円から数億円に設定されており、実質的に富裕層のみがアクセス可能である。

第二に、金融工学の発達により、リスクとリターンの関係がより複雑化した。デリバティブ取引により、少額の資金で大きなレバレッジをかけることが可能になったが、これは同時に破滅的な損失のリスクも伴う。金融リテラシーと情報アクセスの格差により、このような高度な金融商品から利益を得られるのは、主に金融業界の専門家や富裕層に限定される。

第三に、金融化は貨幣政策の波及経路を根本的に変化させた。中央銀行の政策金利変更は、従来は銀行貸出を通じて実体経済に影響を与えていたが、現在では資産価格チャネルを通じた影響がより重要になっている。2008年の金融危機以降、主要国の中央銀行が採用した量的緩和政策は、長期金利を低下させることで株式や不動産の理論価格を押し上げた。この政策により、S&P500指数は2009年から2021年にかけて約4倍に上昇したが、その恩恵を受けたのは主として株式を保有する富裕層であった。

17.6 グローバル化による税制競争と格差拡大

ピケティの分析において、グローバル化は格差拡大を促進する重要な構造的要因として位置づけられる。なぜなら、資本の国際的な移動自由化は、各国の税制政策に対して強力な制約を課し、結果として富の再分配機能を著しく弱化させるからである。

この現象は、「底辺への競争」(race to the bottom)として知られる経済学的概念によって説明される。資本が国境を越えて自由に移動できる環境では、各国政府は外国資本の流出を防ぐため、また外国資本を誘致するために、資本課税率を競争的に引き下げる誘因を持つ。OECD諸国の法人税率は、1980年代の平均45%から2010年代の平均25%まで大幅に低下している。

この税制競争は、特に富裕層と多国籍企業に有利に働く。富裕層は、複数の国に資産を分散配置することで、最も有利な税制を選択することが可能である。例えば、シンガポールやスイスのような低税率国に資産管理会社を設立し、配当や利子所得に対する税負担を最小化する戦略が広く採用されている。

多国籍企業も同様に、移転価格操作や知的財産権の戦略的配置により、実効税率を大幅に引き下げている。GAFA企業の実効税率は、多くの場合15%以下にとどまっており、これは中小企業や個人事業主が負担する税率を大幅に下回っている。

この問題に対するピケティの処方箋は、グローバル資本税の導入である。彼が提案するのは、世界的な資産課税制度であり、個人の全世界資産に対して累進的な税率を適用するものである。具体的には、純資産200万ユーロ以下は非課税、200万-500万ユーロは年率1%、500万ユーロ以上は年率2%といった税率構造が想定されている。

しかし、このような国際協調による課税制度の実現は、現実的には極めて困難である。第一に、税制は各国の主権の核心部分であり、国際的な統一は政治的に困難である。第二に、暗号通貨やブロックチェーン技術の普及により、資産の把握と課税がさらに困難になっている。第三に、中国やロシアのような権威主義的な国家が、このような国際的な透明性向上の取り組みに協力する可能性は低い。

17.7 中央銀行政策の分配効果

中央銀行の金融政策が所得分配に与える影響は、ピケティの理論的枠組みにおいて極めて重要な位置を占める。なぜなら、現代の金融政策は資産価格チャネルを通じて「r > g」の関係を人為的に強化し、格差拡大を加速させる可能性があるからである。

この現象を理解するためには、金融政策の波及メカニズムの変化を把握する必要がある。従来の金融政策理論では、政策金利の変更は銀行貸出を通じて実体経済に影響を与えるとされていた。しかし、金融市場の発達により、現在では資産価格への直接的な影響がより重要になっている。

具体的な事例として、2008年の金融危機以降の量的緩和政策を検討してみよう。アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)は、2008年から2014年にかけて約3.5兆ドルの国債と住宅ローン担保証券を購入した。この政策により、10年国債利回りは約4%から1.5%まで低下し、株式の理論価格(将来キャッシュフローの現在価値)は大幅に上昇した。

この政策効果の分配への影響は極めて非対称的であった。株式を保有する上位10%の世帯は、株価上昇により平均約200万円の資産増加を経験した。一方、株式を保有しない下位50%の世帯には、直接的な恩恵はほとんどなかった。むしろ、低金利政策により預金金利が低下したため、これらの世帯の資産所得は減少した。

さらに問題を複雑化させているのは、金融政策の効果が資産保有構造の違いを通じて階層間で異なることである。富裕層は資産の多くを株式や不動産で保有しているため、量的緩和による資産価格上昇の恩恵を最大限に享受する。一方、中低所得層は資産の大部分を現預金で保有しているため、低金利政策により実質的な資産価値の目減りを経験する。

この問題は、中央銀行の政策目標設定に根本的な課題を提起している。従来の物価安定目標は、消費者物価指数(CPI)に基づいているが、この指標は資産価格の変動を十分に反映しない。資産価格インフレが進行しても、CPIが安定していれば政策変更の必要性は認識されない。結果として、金融政策は意図せずして格差拡大に寄与することになる。

17.8 デジタル経済における新たな資本集中

ピケティの「r > g」の理論的枠組みは、21世紀のデジタル経済における資本集中現象を分析する上でも有効な視点を提供する。しかし、デジタル経済における資本の性質は、従来の産業資本や金融資本とは根本的に異なる特徴を持っている。

デジタル経済における最も重要な特徴は、「ネットワーク効果」と「収穫逓増」である。GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)のようなプラットフォーム企業は、利用者が増加するほど各利用者にとっての価値が高まるという正のフィードバック・ループを持っている。例えば、Facebookの利用者が増加するほど、各利用者は多くの友人とつながることができ、プラットフォームの価値が高まる。

この特性により、デジタル経済では「勝者総取り」(winner-takes-all)の市場構造が形成されやすい。一度市場における優位的地位を確立した企業は、その地位を長期間維持することができ、極めて高い利益率を実現する。Googleの検索事業の営業利益率は約50%、Appleのハードウェア事業の粗利益率は約40%に達している。これらの利益率は、従来の製造業(平均5-10%)を大幅に上回る水準である。

さらに重要なのは、デジタル経済における「資本」の性質である。従来の産業資本は工場や機械といった物理的な設備であったが、デジタル経済における主要な資本は「データ」と「アルゴリズム」である。これらの「デジタル資本」は、限界費用がほぼゼロであるという特徴を持つ。一度開発されたソフトウェアやアルゴリズムは、追加的なコストをほとんどかけることなく無限に複製・利用することができる。

暗号通貨市場も、新たな形の資本集中を生み出している。ビットコインの初期採用者や開発者は、極めて低いコストで大量のビットコインを取得した。ビットコイン価格の急騰により、これらの「クリプト富裕層」は短期間で巨額の富を築いた。ビットコインの上位1%のアドレスが全体の約40%を保有しているという推計もあり、これは従来の金融資産よりもさらに高い集中度を示している。

17.9 理論の限界と批判的検討

ピケティの「r > g」理論は画期的な貢献であるが、その適用範囲と限界についても誠実に検討する必要がある。第一に、この理論は主として西欧先進国のデータに基づいており、新興国や途上国への適用可能性については慎重な検討が必要である。中国やインドのような高成長国では、「g > r」の関係が長期間にわたって維持される可能性がある。

第二に、技術革新の影響については、ピケティの理論は十分に考慮していない。破壊的イノベーションにより既存の資本が陳腐化する場合、資本収益率は大幅に低下する可能性がある。例えば、電気自動車の普及により、内燃機関関連の製造設備の価値は急速に減価している。

第三に、人的資本の重要性が過小評価されている可能性がある。現代経済において、教育や技能といった人的資本の収益率は、物理的資本の収益率を上回る場合が多い。特に、高度な専門技能を持つ労働者の賃金上昇率は、平均的な資本収益率を上回っている。

第四に、政府の役割についての分析が不十分である。公的年金制度や公的医療制度は、実質的な富の再分配機能を果たしており、民間資産の格差だけを見ていては全体像を把握できない可能性がある。

17.10 現代データと実証的補遺

世界不平等データベース(WID.world)によれば、多くの先進国において上位1%の富のシェアが1980年代以降に顕著な上昇傾向を示している。アメリカでは、上位1%の富のシェアが1980年の約23%から2016年の約39%まで上昇した。同様の傾向は、イギリス(1980年:18% → 2016年:21%)、フランス(1980年:16% → 2016年:22%)でも観察される。

富と所得の比率(β = W/Y)についても、長期的な上昇傾向が確認される。フランスでは、私的富の国民所得比が1950年の約200%から2010年の約600%まで上昇している。この上昇の主要因は、低金利環境による資産価格上昇と、高貯蓄率の維持である。

資産保有構造の階層差も格差拡大の重要な要因である。OECD諸国の平均では、上位10%の世帯は金融資産の約60%を株式・投資信託で保有している一方、下位50%の世帯は約80%を現預金で保有している。この構造的差異により、資産価格インフレの恩恵は主として富裕層に集中する。

金融政策の分配効果についても、実証的な証拠が蓄積されている。欧州中央銀行(ECB)の研究によれば、量的緩和政策により上位10%の世帯の純資産は約5%増加した一方、下位50%の世帯の純資産増加は約1%にとどまった。


本章のポイント

ピケティの貨幣論的分析は、21世紀の資本主義経済における格差拡大メカニズムを体系的に解明した。「r > g」の基本法則は、資本収益率が経済成長率を持続的に上回ることにより、資本所有者が労働者よりも速いペースで富を蓄積することを示している。この現象は、相続制度を通じて世代を超えて再生産され、現代社会における「能力主義的幻想」に根本的な挑戦を提起している。

金融化の進展は、この格差拡大プロセスをさらに複雑化させている。金融商品の多様化により、富裕層はより高度な資産運用戦略を採用できるようになった一方、中低所得層は相対的に不利な立場に置かれている。中央銀行の金融政策も、資産価格チャネルを通じて意図せずして格差拡大に寄与している。

グローバル化による税制競争は、富の再分配政策の実効性を著しく低下させている。ピケティが提案するグローバル資本税は理論的には有効な解決策であるが、政治的・技術的な実現困難性も高い。

デジタル経済の発達は、新たな形の資本集中をもたらしている。プラットフォーム企業の「勝者総取り」構造や、暗号通貨市場における極端な富の集中は、従来の格差理論を拡張する必要性を示唆している。

ただし、ピケティの理論にも限界がある。新興国への適用可能性、技術革新の影響、人的資本の重要性、政府の再分配機能などについては、さらなる検討が必要である。それでもなお、彼の分析は21世紀の貨幣経済を理解する上で不可欠な理論的基盤を提供している。

参考文献

原典

主要論文

批判的検討

実証データ


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