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「銀行家は、企業家に新しい購買力を創造することによって、資本主義経済の発展を可能にする。彼らは既存の貯蓄を単に仲介するのではなく、文字通り無から購買力を生み出すのである。」
20世紀前半の経済学において、ヨーゼフ・シュンペーターは貨幣・金融理論と経済発展論を統合した独創的な理論体系を構築した。彼の理論は、なぜ資本主義経済が停滞と成長を繰り返すのか、そしてなぜ銀行制度がその中核的役割を果たすのかという根本的問題に対する包括的な回答を提供している。
ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは1883年2月8日、オーストリア=ハンガリー帝国のモラヴィア地方(現在のチェコ)トゥリエシュに生まれた。父親は織物工場の経営者であったが、シュンペーターが4歳の時に死去している。母親の再婚により、ウィーンの上流社会で教育を受けることになったこの経験は、後に彼が資本主義の動態的性格と社会階層の変動に深い関心を持つ原点となった。
ウィーン大学では、当時オーストリア学派の中心人物であったオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクとフリードリヒ・フォン・ヴィーザーに師事した。しかし、シュンペーターは師匠たちの静態的均衡理論に満足せず、むしろ経済の動態的変化こそが本質的であると考えるようになった。この思想的転換は、1906年に発表した処女作『理論経済学の本質と主要内容』において既に明確に示されている。
1911年、28歳のシュンペーターは『経済発展の理論』(Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung)を発表した。この著作において彼は、経済発展の原動力は外部要因ではなく、経済システム内部から生じる「イノベーション」にあると主張した。この革新的な視点は、当時支配的であった新古典派の均衡理論に対する根本的挑戦であった。
第一次世界大戦後、シュンペーターは短期間オーストリア共和国の財務大臣を務めた後、民間銀行の頭取として実業界を経験した。この実務経験は、彼の金融理論に実証的な裏付けを与えることになった。1932年にハーバード大学に移住してからは、『景気循環論』(1939年)、『資本主義・社会主義・民主主義』(1942年)などの主著を完成させ、現代経済学に決定的な影響を与えた。
シュンペーターの貨幣理論の出発点は、従来の経済学が前提としてきた「貯蓄先行投資理論」への根本的批判にある。新古典派理論では、投資は事前に蓄積された貯蓄によって制約され、銀行は単に貯蓄者と投資家を仲介する機関に過ぎないとされていた。しかし、シュンペーターはこの見方を「静態的経済循環」の枠内でのみ有効な部分的真理として退けた。
彼によれば、真の経済発展は既存の資源配分の最適化によってではなく、全く新しい生産方法や製品の導入によって実現される。このような「新結合」(neue Kombinationen)を実行するためには、既存の生産要素を新たな用途に転用する必要がある。しかし、完全雇用状態にある経済では、新しい企業が生産要素を取得するためには、既存の企業からそれらを「引き離す」必要がある。この過程で決定的な役割を果たすのが銀行の信用創造機能である。
シュンペーターは、銀行が企業家に信用を供与する際、文字通り「無から購買力を創造する」と主張した。この主張の理論的根拠は以下の通りである。
まず、企業家が革新的事業を開始しようとする時点では、その事業から将来得られる収益は不確実である。したがって、既存の貯蓄者がその事業に自発的に資金を提供する可能性は低い。ここで銀行が果たす役割は、企業家の将来収益に対する「信用」に基づいて、現在の購買力を創造することである。
具体的には、銀行は企業家に対して貸付を実行することで、企業家の口座に預金を創造する。この預金は、企業家が生産要素を購入するための購買力として機能する。重要なのは、この購買力が既存の貯蓄から移転されたものではなく、銀行の信用創造によって新たに生み出されたものだということである。
この過程を数値例で示そう。ある企業家が新技術の導入のために100万円の資金を必要としているとする。銀行がこの企業家に100万円の貸付を実行すると、企業家の預金口座に100万円が記録される。同時に、銀行の貸付残高も100万円増加する。この時点で、経済全体の購買力は100万円増加している。企業家はこの購買力を使って労働者を雇用し、原材料を購入する。その結果、既存企業の生産要素に対する需要が増加し、これらの要素の価格が上昇する。
シュンペーターの信用理論は、クヌート・ヴィクセルの累積過程理論と密接な関係を持っている。ヴィクセルは、市場利子率が自然利子率を下回る場合、銀行信用の拡張により物価上昇が累積的に進行することを示した。シュンペーターはこの枠組みを発展させ、信用拡張が単なる物価変動ではなく、経済構造の根本的変化をもたらすことを明らかにした。
シュンペーターによれば、革新的企業家は既存の生産要素に対してより高い価格を支払う意思を持っている。なぜなら、新技術や新製品によって、これらの要素からより高い収益を得ることが期待できるからである。この状況では、企業家が銀行から借り入れる「自然利子率」は、従来の用途における要素の限界生産性によって決まる市場利子率よりも高くなる。
銀行が市場利子率で企業家に貸付を行う場合、企業家は既存企業よりも高い価格で生産要素を購入できるようになる。その結果、生産要素は既存の用途から新しい用途へと移転し、経済構造が変化する。このプロセスは、単純な量的拡張ではなく、経済の質的転換を伴うものである。
シュンペーターの経済理論において、企業家(Unternehmer)は単なる事業経営者ではない。彼によれば、企業家とは「新結合を実現する人」として定義される。この新結合には以下の5つの類型がある:
第一に、新しい財貨の生産である。これは既存の消費者ニーズを満たす全く新しい製品の開発を意味する。例えば、19世紀末の自動車の発明や、20世紀後半のパーソナルコンピューターの開発がこれに該当する。
第二に、新しい生産方法の導入である。これは同じ製品をより効率的に、または低コストで生産する技術の導入を指す。フォードの大量生産システムや、現代の自動化技術の導入がその例である。
第三に、新しい販路の開拓である。これは既存の製品を新しい市場で販売することを意味する。地理的拡張だけでなく、新しい消費者層への製品の浸透も含まれる。
第四に、原料や半製品の新しい供給源の獲得である。これは生産コストの削減や品質向上を可能にする新しい調達先の開発を指す。
第五に、新しい組織の実現である。これは独占の形成や独占の打破など、市場構造の変化を伴う組織変革を意味する。
シュンペーターは、真の利潤は企業家のイノベーション活動からのみ生じると主張した。この主張の論理は以下の通りである。
静態的均衡状態では、すべての生産要素はその限界生産性に等しい報酬を受け取り、超過利潤は存在しない。しかし、企業家が新結合を実現すると、一時的に生産コストを上回る収益を得ることができる。この超過収益こそが企業家利潤の源泉である。
重要なのは、この利潤が一時的なものであることである。企業家の成功を見た他の経営者は、同様の新結合を模倣しようとする。この模倣過程により、革新的技術や製品は次第に一般化し、超過利潤は消失する。その結果、経済は新しい均衡状態に到達するが、その均衡は以前よりも高い生産性水準を特徴とする。
この過程を具体例で説明しよう。ある企業家が新しい生産技術を開発し、従来の半分のコストで同じ製品を生産できるようになったとする。市場価格が従来の水準に留まっている間、この企業家は大きな利潤を得ることができる。しかし、他の企業がこの技術を模倣し始めると、競争により製品価格は低下し、最終的に新しい生産コストの水準まで下がる。その結果、企業家利潤は消失するが、消費者は低価格でより良い製品を購入できるようになる。
シュンペーターの理論において特に重要でありながら見過ごされがちなのが、「家族動機(ファミリー・モーティブ)」の概念である。この理論は、資本主義の発展と衰退を理解する上で決定的な洞察を提供している。
シュンペーターによれば、資本主義の初期段階では、企業家の行動は純粋な利潤動機だけでなく、「家族動機」によっても駆動されていた。家族動機とは、自分の子供や孫の将来を考慮して経済行動を決定する動機のことである。この動機により、企業家の時間的視野は自分の生存期間を超えて拡張される。
具体的には、子供や孫がいる企業家は以下のような行動を取る傾向がある:
家族動機の存在により、企業家は自分の寿命を超えた長期的視点から投資判断を行うことができた。例えば、東レの炭素繊維開発のように、数十年にわたって赤字を覚悟で継続される研究開発投資は、このような拡張された時間視野なしには実現困難である。
一方、子供のいない個人や短期的利益のみを追求する経営者は、「自分が死んだ後のことなど知ったことか」という態度を取りがちである。この場合、投資の時間的視野は大幅に短縮され、イノベーションに必要な長期的・継続的投資が困難になる。
シュンペーターの洞察の中で最も鋭いのは、資本主義の成功が自らの基盤を破壊するという「逆説」の指摘である。資本主義の発展により合理主義的思考が社会に浸透すると、人々は経済合理性に基づいて行動するようになる。
しかし、この合理主義的思考は、子供を持つことの経済的非合理性を明確に認識させる。「結婚して子供を作って育てるなんて、全く経済合理的ではない」という判断により、少子化が進行する。シュンペーターは1943年という早い時期に、この現象を予見していた。
少子化の進行は、単に人口減少や社会保障負担の問題ではない。より根本的には、経済主体の時間視野の短縮をもたらし、長期投資とイノベーションの基盤を侵食する。その結果、資本主義は自らの成功によって、発展の原動力である企業家精神を失うことになる。
シュンペーターの企業家理論は、利子の本質に関する新しい視点を提供した。従来の理論では、利子は時間選好や資本の限界生産性によって説明されてきた。しかし、シュンペーターによれば、利子は本質的に企業家の将来利潤に対する請求権として理解されるべきである。
企業家が銀行から資金を借り入れる際、彼らは将来のイノベーションから得られる利潤の一部を利子として支払うことを約束する。したがって、利子率は企業家の期待利潤率と密接に関連している。この関係は、経済発展の局面によって変化する。
革新の波が始まる初期段階では、企業家の期待利潤率は高く、彼らは高い利子率でも資金調達を行う意思を持つ。この段階では資金需要が供給を上回り、利子率は上昇する。しかし、模倣が進んで利潤率が低下すると、資金需要も減少し、利子率は下降する。このサイクルが景気循環の金融的基礎を形成する。
シュンペーターの景気循環論は、企業家活動とイノベーションの時間的集中(クラスター化)に基づいている。彼によれば、技術革新は時間的に均等に分散するのではなく、特定の期間に集中して現れる傾向がある。この現象の背景には、以下のような要因がある。
まず、基礎的な科学技術の発展は連続的というよりも断続的である。例えば、蒸気機関の発明、電力の実用化、内燃機関の開発、コンピューターの発明など、経済に根本的変化をもたらす技術は比較的短期間に集中して現れる。
次に、一つの重要な革新が成功すると、それに関連する技術分野での革新が誘発される。自動車の発明は、道路建設、石油精製、タイヤ製造など、関連産業での技術革新を促進した。このような技術的相互依存性により、革新は群発する傾向を持つ。
さらに、金融市場の特性も革新の集中を促進する。一つの革新的企業が成功すると、投資家の期待が高まり、類似の事業に対する資金供給が活発化する。この「投資家心理」の変化により、革新的事業への資金調達が容易になり、企業家活動が活発化する。
景気循環の拡張局面は、企業家による新結合の実現から始まる。この段階では、銀行の信用創造により新しい購買力が経済に注入される。企業家はこの購買力を使って生産要素を既存の用途から引き離し、新しい生産過程に投入する。
この過程で重要なのは、総需要の増加が生産能力の増加に先行することである。企業家が生産要素を購入する段階では、新しい製品はまだ市場に供給されていない。したがって、既存製品に対する需要圧力が高まり、物価上昇が生じる。
物価上昇は複数の経路を通じて経済活動をさらに活発化させる。第一に、既存企業の名目利潤が増加し、これらの企業の投資意欲が高まる。第二に、実質賃金の低下により、労働需要が増加する。第三に、物価上昇期待により投機的需要が拡大する。
しかし、この拡張過程には内在的な限界がある。新結合による生産能力の増加が実現し、新製品が市場に供給され始めると、需給バランスが変化する。また、模倣企業の参入により競争が激化し、利潤率が低下し始める。
拡張局面の終了は、複数の要因の相互作用によってもたらされる。まず、模倣の進展により企業家利潤が減少し、新規投資の収益性が低下する。これにより、資金需要が減少し、信用拡張のペースが鈍化する。
同時に、拡張期に実行された投資プロジェクトからの借入金返済が本格化する。企業家は銀行に対する債務を返済するために、生産した製品を市場で販売し、現金を獲得する必要がある。この過程で、拡張期に創造された購買力が経済から回収される。
さらに重要なのは、新しい技術や製品の普及により、既存の技術や製品が陳腐化することである。この「創造的破壊」のプロセスにより、既存企業の資産価値が下落し、これらの企業の投資能力が損なわれる。
調整局面では、非効率的な企業の淘汰が進む一方で、革新的な企業は市場シェアを拡大する。この過程を通じて、経済全体の生産性が向上し、次の革新の波に向けた基盤が整備される。
シュンペーターは、現実の景気循環が単一の周期ではなく、異なる長さの複数の周期の重ね合わせによって構成されることを明らかにした。彼は主として以下の3つの周期を識別した。
短期周期(キチン・サイクル、約40ヶ月)は、主として在庫調整に関連する。企業は需要予測に基づいて在庫を調整するが、情報の不完全性により過剰在庫や在庫不足が周期的に発生する。
中期周期(ジュグラー・サイクル、約10年)は、設備投資の周期に対応する。企業は需要の変化に応じて生産設備を調整するが、設備の耐用年数や投資の不可逆性により、この調整には時間的遅れが生じる。
長期周期(コンドラチエフ・サイクル、約50-60年)は、基礎的技術の変化に関連する。蒸気機関、鉄道、電力、自動車、情報技術など、経済の基盤を変える技術革新は数十年の間隔で現れ、長期的な成長パターンを形成する。
これらの周期が相互に作用することにより、現実の景気変動は複雑なパターンを示す。例えば、長期上昇局面にある時期の短期循環は、長期下降局面における短期循環よりも振幅が大きくなる傾向がある。
シュンペーターの理論は、クヌート・ヴィクセルの累積過程理論を動態的発展論の文脈で再解釈したものと見ることができる。ヴィクセルは、市場利子率が自然利子率から乖離した場合の物価変動過程を分析したが、自然利子率自体の変動については詳しく論じなかった。
シュンペーターは、企業家のイノベーション活動こそが自然利子率を変動させる主要因であることを明らかにした。革新的な投資機会の出現により、資本の限界生産性(自然利子率)が上昇する。この時、銀行が従来の市場利子率で貸出を続けると、企業家は有利な条件で資金調達を行うことができ、革新的投資が促進される。
逆に、模倣の進展により革新的投資の収益性が低下すると、自然利子率も低下する。この段階では、市場利子率が自然利子率を上回る状況が生じ、投資活動が抑制される。このように、シュンペーターの理論は、ヴィクセルの静態的枠組みに動態的内容を与えるものである。
シュンペーターとケインズの理論には、投資の重要性を強調する点で共通性がある。しかし、両者の投資理論は根本的に異なる前提に基づいている。
ケインズの投資理論では、企業家の「動物的本能」(animal spirits)や不確実性に対する主観的判断が投資決定の主要因とされる。投資は本質的に投機的性格を持ち、将来に対する楽観的期待や悲観的期待によって大きく左右される。この視点では、投資の変動は主として心理的要因によって説明される。
これに対して、シュンペーターの理論では、投資は客観的な技術的機会に基づいている。企業家は単なる投機家ではなく、新しい技術や市場機会を発見し、それを実現する能力を持つ特別な経済主体である。投資の変動は、技術進歩のパターンや革新機会の時間的分布によって説明される。
また、両者の貨幣理論にも重要な違いがある。ケインズは流動性選好理論により、貨幣需要の変動が利子率や投資に与える影響を重視した。一方、シュンペーターは銀行の信用創造機能に焦点を当て、貨幣供給の内生的変化が経済発展を駆動するメカニズムを分析した。
シュンペーターはオーストリア学派の伝統の中で育ったが、彼の理論は師匠たちの静態的均衡理論を超越するものであった。特に、フリードリヒ・ハイエクとの比較は興味深い論点を提供する。
ハイエクも信用拡張が景気循環を引き起こすメカニズムを分析したが、彼は信用拡張を本質的に有害なものと見なした。ハイエクによれば、人為的な信用拡張は資本構造を歪め、持続不可能な投資ブームを生み出す。このような「誤投資」は最終的に清算されなければならず、その過程で不況が発生する。
シュンペーターも信用拡張が循環的変動を生み出すことを認めたが、彼はこの過程を経済発展にとって不可欠なものと考えた。企業家による革新的投資は、既存の均衡を破壊することにより、より高い生産性水準への移行を可能にする。この「創造的破壊」のプロセスなしには、経済発展は実現されない。
両者の違いは、変化に対する基本的態度の相違を反映している。ハイエクは自然的均衡の復元を重視したのに対し、シュンペーターは均衡の破壊と再構築こそが経済の本質であると考えた。
シュンペーターの内生的貨幣理論は、現代のポスト・ケインズ派金融理論と多くの共通点を持っている。特に、ハイマン・ミンスキーの金融不安定性仮説は、シュンペーターの循環論の現代的発展と見ることができる。
ミンスキーは、経済主体の金融行動を「ヘッジ金融」「投機金融」「ポンジ金融」の3つに分類し、好況期にはより投機的な金融行動が増加することを示した。この過程は、シュンペーターが描いた信用拡張から調整への移行パターンと本質的に同じ構造を持っている。
また、現代の金融技術の発展は、シュンペーターが予見した信用創造機能の拡張を実現している。証券化、デリバティブ、シャドーバンキングなどの金融革新により、銀行以外の金融機関も実質的に信用創造機能を果たすようになった。これらの発展は、シュンペーターの理論枠組みの現代的妥当性を示している。
1990年代以降の日本経済の長期停滞は、シュンペーター理論の現代的妥当性を示す重要な事例である。バブル崩壊後、日本は「構造改革」の名の下に新自由主義的政策を推進したが、これらの政策はシュンペーターの理論と正反対の方向を向いていた。
特に問題だったのは、「創造的破壊」概念の根本的誤解である。政策立案者たちは、市場原理の徹底、競争の促進、政府の役割縮小を「創造的破壊」と呼んだが、これはシュンペーターが意図した意味とは正反対であった。シュンペーターの創造的破壊は、企業家による革新的投資が既存の産業構造を変革するプロセスを指すのであり、単なる規制緩和や民営化とは本質的に異なる。
1990年代から2000年代にかけて実施された以下の政策は、シュンペーター的観点から見て問題があった:
小さな政府政策: 政府支出の削減と民営化の推進は、長期的な基礎研究や産業育成への投資を縮小した。しかし、シュンペーターの理論では、不確実性の高い革新的投資には、時として政府の関与が必要である。
過度の競争促進: 短期的競争の激化は、企業の長期投資インセンティブを削減した。企業は四半期決算に追われ、数年から数十年を要するイノベーションへの投資を躊躇するようになった。
雇用の流動化: 終身雇用制度の解体と非正規雇用の拡大は、企業と従業員双方の長期的視野を短縮した。これにより、企業内での技術蓄積や人材育成が困難になった。
興味深いことに、戦後日本の高度成長を支えた「日本的経営システム」は、シュンペーターの理論と高い整合性を持っていた。このシステムは以下の特徴を持っていた:
戦後の日本企業は、単なる経済組織を超えて「企業共同体」としての性格を持っていた。従業員は会社を「家族」のように感じ、自分の退職後も会社の将来を気にかけた。この共同体意識は、個人の時間視野を拡張し、長期的投資を可能にした。
終身雇用制度: 従業員が一つの企業で長期間働くことにより、企業特殊的技能の蓄積が進んだ。また、従業員は短期的には不利でも長期的に価値のあるスキル習得に取り組んだ。
企業内訓練: 企業は従業員の長期勤続を前提として、大規模な教育投資を行った。これにより、高度な技術者や熟練工が育成された。
長期的研究開発: 企業は四半期決算に縛られることなく、10年、20年先を見据えた基礎研究に投資した。東レの炭素繊維開発はその典型例である。
戦後日本の金融システムも、シュンペーターの理論と整合的であった。メインバンクは単なる資金供給者ではなく、企業の長期的発展に責任を持つパートナーとして機能した。
長期的関係: 銀行と企業の関係は長期継続的であり、短期的収益性よりも長期的成長性が重視された。
リスク共有: 銀行は企業の革新的投資に伴うリスクを共有し、一時的な業績悪化があっても支援を継続した。
情報の蓄積: 長期的関係により、銀行は企業の技術力や経営能力について深い情報を蓄積し、適切な投資判断を行うことができた。
1990年代以降の構造改革により、上記のシステムは「非効率」として解体された。その結果として以下の問題が生じた:
投資時間視野の短縮: 企業は株主価値最大化を求められ、短期的収益性を重視するようになった。長期的な基礎研究への投資は削減された。
人材流動化の負の側面: 雇用の流動化により、企業は従業員への教育投資を削減した。また、従業員も企業特殊的技能の習得を避け、転職可能な汎用的スキルを重視するようになった。
金融システムの変質: メインバンク・システムの解体により、銀行は短期的収益性を重視するようになった。リスクの高い革新的投資への資金供給は減少した。
イノベーションの停滞: これらの変化の結果として、日本企業のイノベーション能力は著しく低下した。特に、長期間を要する基礎的技術開発において顕著な遅れが生じた。
シュンペーターの内生的貨幣理論は、現代の金融システムの理解に重要な洞察を提供する。彼が1911年に提示した「銀行による購買力創造」の概念は、今日の信用貨幣制度の本質を正確に捉えていた。
現代の銀行システムでは、中央銀行が貨幣供給量を直接的にコントロールすることは困難である。むしろ、民間銀行の貸出活動により貨幣供給量が内生的に決定される。この現実は、シュンペーターが指摘した銀行の能動的役割と一致している。
さらに、21世紀に入ってからの金融技術の発展により、信用創造機能は従来の銀行部門を超えて拡大している。投資銀行、ヘッジファンド、資産運用会社などの「シャドーバンキング」部門も、実質的に信用創造と同様の機能を果たしている。これらの機関は、証券化や再証券化を通じて、既存の資産を担保とした新たな金融商品を創造する。
このような金融システムの発展は、シュンペーターが予見した「金融革新」の現代的表現と見ることができる。ただし、これらの革新が実体経済の生産性向上に寄与するか、それとも単なる投機的活動に終わるかは、制度設計と規制のあり方に依存する。
現代の「イノベーション・エコシステム」の概念は、シュンペーターの企業家理論の現代的発展と見ることができる。シリコンバレーに代表される技術革新の集積地では、企業家、投資家、研究機関、支援機関が密接に連携し、継続的な革新を生み出している。
この文脈で特に重要なのは、ベンチャーキャピタルの役割である。ベンチャーキャピタルは、まさにシュンペーターが描いた「企業家に新しい購買力を提供する金融機関」の現代版である。彼らは、不確実性の高い革新的事業に対して資金を提供し、成功した場合の高収益を期待する。
ただし、現代のベンチャー投資には、シュンペーターの時代にはなかった新しい特徴がある。それは、無形資産(知的財産、データ、ネットワーク効果など)の重要性の増大である。現代の多くの革新的企業は、物理的資産よりも知識やアイデアに基づいて価値を創造する。
この変化は、金融システムに新しい課題を提起している。無形資産は従来の担保として機能しにくく、その価値評価も困難である。したがって、革新的企業への資金供給には、新しい金融技術や制度が必要となる。
21世紀のデジタル革命は、シュンペーターの「創造的破壊」概念の現代的実例を提供している。インターネット、モバイル技術、人工知能などの技術革新は、既存の産業構造を根本的に変革している。
例えば、電子商取引の普及は小売業界を変革し、多くの従来型小売店を淘汰した。同時に、新しいビジネスモデル(オンライン・プラットフォーム、マーケットプレイス、D2C等)が出現し、より効率的な流通システムが構築された。
この過程は、シュンペーターが描いた循環パターンと一致している。初期の革新企業(Amazon、Google、Facebookなど)は高い利潤を獲得したが、模倣と競争の激化により、利潤率は次第に低下している。同時に、これらの技術は社会全体の生産性向上に寄与している。
しかし、デジタル経済には従来の産業革命とは異なる特徴もある。ネットワーク効果や規模の経済により、少数の企業が市場を独占する傾向が強い。この「勝者総取り」の構造は、シュンペーターが想定した模倣による利潤の均等化プロセスを阻害する可能性がある。
シュンペーターの家族動機理論は、現代の政策立案に重要な示唆を提供する。伝統的な家族動機が減衰している現代において、長期的視野を維持するための代替メカニズムが必要である。
国家による長期投資: 中国の半導体産業育成政策に見られるように、政府が長期的視野に基づく産業政策を実施する例が増えている。政府は個人や企業よりも長期的視野を持ちうるため、家族動機の代替として機能する可能性がある。
企業統治の改革: 四半期決算重視から長期価値創造重視への転換が求められる。株主構成の長期化、経営者の任期延長、長期インセンティブ制度の導入などが考えられる。
ソーシャル・インパクト投資: 金銭的リターンだけでなく、社会的・環境的インパクトも考慮する投資手法の普及により、投資の時間視野を拡張できる可能性がある。
シュンペーターの理論は、金融政策に対して複雑な含意を持っている。彼の理論によれば、景気循環は経済発展の必然的結果であり、完全に抑制することは望ましくない。政策の目標は、循環を消去することではなく、「良い創造的破壊」を促進し、「悪い投機的バブル」を抑制することにある。
信用の質的管理: 中央銀行は単純な物価安定目標だけでなく、金融システムの安定性と革新支援機能を同時に考慮する必要がある。信用拡張の過度な進行は、生産的投資ではなく投機的活動を促進する危険性がある。したがって、金融当局は信用の「質」を監視し、実体経済の生産性向上に寄与する信用と、単なる資産価格上昇を目的とする信用を区別する必要がある。
革新支援金融の育成: ベンチャーキャピタル、政府系金融機関、長期投資ファンドなど、長期的・リスク性の高い投資を支援する金融機関の育成が重要である。
日本の失われた30年の経験を踏まえ、産業政策の再構築が必要である:
戦略的産業育成: 既存産業の保護よりも、新興産業の育成と、衰退産業からの円滑な労働移動を支援する政策が重要である。特に、デジタル技術、グリーン技術、バイオ技術など、長期的に重要な分野への集中投資が求められる。
基礎研究への投資拡大: 大学や研究機関への長期的・安定的な研究資金の提供により、企業では困難な基礎研究を支援する必要がある。
人材育成システムの再構築: 企業家精神の育成、創造性の開発、リスク・テイキング能力の向上など、イノベーションを支える人的資本の形成が経済発展の鍵となる。
雇用の流動化と安定性のバランスを再考する必要がある:
企業内人材育成の復活: 短期的な人件費削減よりも、長期的な人材育成投資を促進する政策が必要である。企業の教育投資に対する税制優遇、職業訓練への公的支援などが考えられる。
キャリア形成支援: 雇用流動化の利点を活かしつつ、個人のキャリア形成を長期的に支援する仕組みが必要である。職業能力開発、キャリアカウンセリング、転職支援などの充実が求められる。
現代においてシュンペーターの理論を適用する際に考慮すべき重要な点は、環境制約と持続可能性の問題である。20世紀の産業発展は、主として物質的生産の拡大に基づいていたが、21世紀の発展は環境負荷の軽減と両立する必要がある。
この文脈で注目されるのは、「グリーン・イノベーション」の概念である。再生可能エネルギー、省エネルギー技術、循環経済モデルなどの環境技術は、まさにシュンペーター的な新結合の現代的形態と見ることができる。これらの技術は、従来の資源集約的な生産方式を代替し、新しい産業構造を創造する可能性を持っている。
ただし、グリーン・イノベーションの促進には、市場メカニズムだけでは不十分な場合が多い。環境負荷の外部性を内部化する政策(炭素税、排出権取引など)や、初期段階の技術開発を支援する公的投資が必要となる。
このような政策的介入は、シュンペーターの理論枠組みにおいても正当化される。なぜなら、真の企業家利潤は社会的価値の創造に基づくべきであり、環境破壊による外部費用を考慮しない利潤は持続可能ではないからである。
ヨーゼフ・シュンペーターの理論体系は、20世紀前半に構築されたにもかかわらず、21世紀の経済現象を理解する上で依然として重要な洞察を提供している。彼の最も重要な貢献は、経済学に「発展」の視点を導入し、静態的均衡理論では捉えきれない動態的変化のメカニズムを明らかにしたことである。
シュンペーターの内生的貨幣理論は、現代の金融システムの理解に不可欠な基礎を提供している。彼が提示した「銀行による購買力創造」の概念は、今日の信用貨幣制度や金融革新を理解する上での出発点となっている。
企業家とイノベーションに関する彼の理論は、現代の「イノベーション経済学」や「起業家精神研究」の理論的基礎となっている。特に、技術革新と経済発展の関係、創造的破壊のプロセス、イノベーション・エコシステムの重要性などの概念は、現代の経済政策立案において中心的な役割を果たしている。
景気循環論については、シュンペーターの複合的周期理論は、現代の複雑な経済変動を理解する上で有用な分析枠組みを提供している。特に、技術革新の波と金融循環の相互作用に関する彼の洞察は、現代の金融危機や技術バブルの分析に応用可能である。
ただし、シュンペーターの理論を現代に適用する際には、彼の時代にはなかった新しい要素を考慮する必要がある。グローバル化、デジタル化、環境制約、格差拡大などの現代的課題に対して、シュンペーターの基本的枠組みをどのように拡張・修正するかが重要な研究課題となっている。
最終的に、シュンペーターの最も重要な遺産は、経済現象を動態的・歴史的文脈で理解する視点である。彼の理論は、経済学が単なる資源配分の最適化問題ではなく、創造と破壊、革新と模倣、発展と停滞のダイナミックな過程であることを示している。この視点は、21世紀の複雑で変化の激しい経済環境において、ますます重要性を増している。
21世紀に入り、シュンペーターの理論は新たな注目を集めている。特に、デジタル経済の台頭、グローバル化の進展、環境制約の顕在化といった現代的課題に対して、シュンペーターの枠組みは有効な分析ツールを提供している。
イノベーション・エコシステム論: 現代の「イノベーション・エコシステム」概念は、シュンペーターの企業家理論の現代的発展である。シリコンバレーに代表される技術革新の集積地では、企業家、投資家、研究機関、支援機関が密接に連携し、継続的な革新を生み出している。
進化経済学: ネルソンとウィンターらによって発展された進化経済学は、シュンペーターの動態的経済観を継承している。企業の学習、ルーチンの変化、技術パラダイムの転換などの概念は、シュンペーターの創造的破壊理論の現代的展開と見ることができる。
内生的成長理論: ローマーやアギオンらの内生的成長理論は、技術進歩を経済成長の内生的要因として分析している。これらの理論は、シュンペーターのイノベーション重視の視点を現代経済学の主流に組み込んだものと評価できる。
シュンペーター理論の日本経済への適用から得られる教訓は以下の通りである:
制度の重要性: 経済発展には、単なる市場メカニズムだけでなく、長期的投資を支援する制度的枠組みが不可欠である。戦後日本の成功は、このような制度の存在によるものであった。
改革の方向性: 経済改革は、競争激化や規制緩和だけでなく、イノベーションを促進する制度設計を重視すべきである。短期的効率性よりも長期的創造性を重視する政策が求められる。
グローバル化への対応: グローバル化の進展により、一国内での制度設計だけでは不十分になっている。国際的な制度調整や政策協調が必要である。
持続可能な発展: 環境制約下での経済発展には、グリーン・イノベーションの促進が不可欠である。これには、長期的視野に基づく投資と政策支援が必要である。
シュンペーターの主著
研究書・解説書
関連理論
現代的解釈・応用研究
参考一覧: references/参考文献.md
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