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第13章:クヌート・ヴィクセル——自然利子率と累積過程による信用貨幣の価格動学

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序論:19世紀末スウェーデンの経済的転換点

クヌート・ヴィクセル(1851–1926)が『利子と価格(Geldzins und Güterpreise)』を著した1898年は、スウェーデンが農業国から工業国へと急速に転換していた時代である。この時期のスウェーデンは、鉄道建設ブームと木材・鉄鉱石の輸出拡大により、前例のない経済成長を経験していた。しかし同時に、激しい物価変動と信用拡張・収縮のサイクルに見舞われ、従来の貨幣論では説明しきれない現象が頻発していた。

ヴィクセルが直面した中心的な疑問は、なぜ金本位制下でありながら物価が持続的に上昇し、時には急激に下落するのかということであった。古典派経済学の数量説は、貨幣供給量の変化が物価を決定すると説明していたが、実際の経済では銀行信用の拡張・収縮が物価変動の主要な原因となっていることが明らかであった。この観察から、ヴィクセルは貨幣を単なる「取引のベール」ではなく、銀行信用と利子率を通じて実体経済を能動的に動かす仕組みとして再定義する必要性を認識したのである。

ヴィクセルの理論的革新は、自然利子率(natural rate of interest)と市場利子率(market rate of interest)の概念的区別にある。彼は、実物経済の均衡を保つ理論上の利子率と、銀行が実際に設定する貸出金利との乖離こそが、物価水準の累積的変動を引き起こすメカニズムであると論じた。この洞察は、現代の中央銀行政策の基礎となるインフレ目標制度、テイラー・ルール、そして政策金利による経済安定化政策の理論的根拠を提供することになる。

11.1 自然利子率と市場利子率:概念的基礎

ヴィクセルの理論的枠組みの中核は、二つの異なる利子率概念の区別にある。第一の概念である自然利子率(i_n, natural rate of interest)とは、貨幣的攪乱が存在しない仮想的な状況において、財市場と資本市場の実物的均衡、すなわち貯蓄と投資の均等を実現し、同時に物価水準の安定を維持する実質利子率を意味する。ヴィクセルは、この自然利子率を「価格水準を安定させる利子率」として操作的に定義し、理論分析の基準点として位置づけた。

これに対して市場利子率(i_m, market rate of interest)は、現実の金融市場において銀行が設定する名目貸出金利である。この市場利子率は、中央銀行の政策金利水準と銀行間の競争状況によって決定され、企業や個人の信用創造へのアクセス条件を規定する。重要なことは、この市場利子率が必ずしも自然利子率と一致するわけではないということである。

両者の乖離が経済に与える影響について、ヴィクセルは明確な因果関係を提示した。市場利子率が自然利子率を下回る場合(i_m < i_n)、企業にとって投資の採算性が向上し、銀行からの信用需要が増加する。銀行は利潤機会を前に信用供給を拡張し、その結果として創出された新たな購買力が総需要を押し上げる。供給能力を上回る需要の増加は必然的に物価上昇をもたらし、この過程は累積的に継続する。

逆に、市場利子率が自然利子率を上回る場合(i_m > i_n)には、投資の収益性が悪化し、企業の借入需要は減少する。銀行の信用供給も収縮し、総需要の不足が生じる。この需給ギャップは物価下落圧力を生み出し、デフレーションの累積過程が始動する。物価水準の安定は、市場利子率と自然利子率が一致する場合(i_m = i_n)にのみ実現される。

しかし、この理論的枠組みには重要な実践上の困難が伴う。自然利子率は直接観測することができない理論的構成概念であり、しかも時間の経過とともに変化する。技術進歩による生産性の向上、人口動態の変化、社会全体のリスク選好の変化、財政収支の状況、国際資本移動の動向など、様々な構造的要因が自然利子率の水準を左右する。このため、政策当局は常に変動する自然利子率を推計し、それに市場利子率を一致させ続けるという、終わりのない探索過程を強いられることになる。

11.2 累積過程のメカニズム:信用創造と物価動学

ヴィクセルの累積過程理論は、従来の金本位制や外生的貨幣供給を前提とした貨幣論から根本的に離れ、「純信用経済(pure credit economy)」という理論的枠組みを採用している。この経済では、銀行の貸出行為が同時に預金を創造し、貨幣供給が信用需要に対して内生的に反応する。このような環境において、物価水準の決定メカニズムは従来の数量説とは全く異なる動学を示すのである。

累積過程の展開は、以下のような段階的な因果連鎖として理解することができる。まず初期段階において、銀行は特定の市場利子率(i_m)を設定し、これを借り手に提示する。企業の経営者は、自らの投資プロジェクトから期待される収益率、すなわち実物的な自然利子率(i_n)と、銀行が提示する借入コストを比較検討する。もし市場利子率が自然利子率を下回っていれば、企業にとって借入による投資は利潤機会となり、信用需要が増加する。

銀行は、この信用需要の増加に対して貸出を拡張することで対応する。重要なのは、この貸出行為が同時に新たな預金を創造し、経済全体の購買力を直接的に増加させることである。企業は借り入れた資金を設備投資、在庫投資、雇用拡大に充て、これらの支出が総需要を押し上げる。供給能力が短期的に固定されている状況では、この需要増加は必然的に価格と賃金の上昇をもたらす。

ここで累積過程の自己強化メカニズムが作動する。物価水準の持続的上昇は、名目利子率が固定されている限り、事後的(ex post)な実質利子率をさらに低下させる。実質借入コストの低下は企業の投資意欲を一層刺激し、追加的な信用需要を生み出す。この循環は、外部からの介入がない限り継続し、インフレーションが累積的に加速していく。

デフレーションの累積過程は、この逆の経路を辿る。市場利子率が自然利子率を上回る場合、投資の収益性が悪化し、企業の借入需要は減少する。銀行の信用供給も収縮し、総需要の不足が生じる。物価下落は実質利子率をさらに上昇させ、投資抑制を強化する。この悪循環により、デフレーションもまた累積的に深刻化していく。

この累積過程理論が持つ最も重要な含意は、自動安定化メカニズムが機能しないということである。古典派の数量説では、貨幣供給量の制約が物価上昇を自然に抑制すると想定されていた。しかし、信用創造による内生的貨幣供給の世界では、利子率の設定が適切でない限り、物価は一方向に累積的に変動し続ける。したがって、中央銀行は物価の変化を注意深く観察し、それに対応して市場利子率を系統的に調整する積極的な政策介入を行わなければならないのである。

11.3 純信用経済と内生的貨幣:貨幣供給の新たな理解

ヴィクセルの理論的枠組みにおいて、外生的なベースマネーの存在は本質的な要素ではない。彼が想定する純信用経済では、銀行が企業や個人に対して貸出を行い、その結果として預金が創造され、経済主体間の決済は銀行間決済システムと中央銀行の当座預金勘定を通じて処理される。この仕組みにおいて最も重要な特徴は、貨幣供給が外部から機械的に決定されるのではなく、信用需要に対して内生的に反応するということである。

従来の数量説的思考では、貨幣供給量という「量」的変数が物価水準を決定すると考えられていた。しかし、ヴィクセルの純信用経済では、利子率という「価格」変数の設定こそが、景気変動と物価動学を規定する決定的要因となる。銀行は市場利子率を設定し、この価格に基づいて企業や個人の信用需要が決まり、その需要に応じて貨幣供給が内生的に調整される。つまり、因果関係の方向が従来の理論とは逆転しているのである。

この内生的貨幣供給の概念は、現代の金融理論における重要な発展の出発点となった。ポスト・ケインジアンの内生的貨幣論、中央銀行の政策伝達メカニズムを分析する信用チャネル理論、そして銀行貸出の景気循環に与える影響を検討する銀行貸出チャネル理論は、いずれもヴィクセルの洞察を継承し発展させたものである。

ただし、ヴィクセルの理論は古典派の数量説と完全に対立するものではない。長期的な視点では、経済成長に見合った貨幣供給の増加が必要であるという数量説の基本的洞察は依然として有効である。ヴィクセルが行ったのは、貨幣と物価の関係における「因果の主軸」を、量から価格(利子率)へと移し替えることであった。この視点の転換により、短期的な景気変動と物価変動のメカニズムをより精緻に分析することが可能になったのである。

11.4 物価安定ルールとウィクセル的政策:現代金融政策の原型

ヴィクセルは、中央銀行が物価安定を実現するための具体的な政策ルールを早くも提示していた。彼の基本的な政策処方箋は明快である。物価水準が上昇傾向を示している場合、中央銀行は市場利子率を引き上げることで信用の拡張を抑制し、総需要の過熱を冷却しなければならない。逆に、物価水準が下落している場合には、市場利子率を引き下げることで信用供給を促進し、総需要の不足を補わなければならない。この政策の最終目標は「価格水準の安定」であり、これは後に「インフレ率の安定」という現代的な目標設定へと発展していくことになる。

ヴィクセルの政策ルールは、現代の金融政策理論における中核概念であるテイラー・ルールの直接的な先駆となっている。1993年にジョン・テイラーが定式化したテイラー・ルールは、インフレ率が目標値から1パーセントポイント上昇した場合、名目政策金利を1パーセントポイント以上引き上げるべきであるとするテイラー原理を含んでいる。この「1対1以上」の反応は、実質金利を十分に引き上げることで、インフレ期待の発散を防ぎ、経済を安定均衡に導くために不可欠である。

マイケル・ウッドフォードは2003年の著作『Interest and Prices』において、ヴィクセルの原著と同じタイトルを採用し、新古典派とニューケインジアンの理論的枠組みを用いてヴィクセルの洞察を現代的に厳密化した。ウッドフォードの分析は、価格の粘着性と合理的期待の下で、ヴィクセル的な政策ルールがいかにして経済の安定化に寄与するかを数学的に証明している。

現代の中央銀行実務において、ヴィクセル的政策は以下のような形で具体化されている。第一に、中央銀行は物価上昇率が目標値から乖離した場合に系統的に反応する。例えば、日本銀行が採用している2%のインフレ目標の下では、実際のインフレ率が2%を上回った場合に政策金利の引き上げが検討される。第二に、多くの中央銀行は物価ギャップに加えて、産出ギャップ(実際のGDPと潜在GDPの差)にも反応する複合的なルールを採用している。これにより、需要環境の変化により柔軟に対応することが可能となる。

第三に、そして最も重要なことは、現代の中央銀行がヴィクセルの自然利子率に相当する「中立金利(r*)」の推定を継続的に更新し、実質政策金利がこの推定値と整合的になるよう政策運営を行っていることである。例えば、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)は、長期的な実質中立金利を2.5%程度と推定し、インフレ目標2%と合わせて、長期的な名目政策金利の水準を4.5%程度と想定している。しかし、この中立金利は経済構造の変化に応じて変動するため、政策当局は常に最新の経済データに基づいて推定値を更新し続ける必要がある。

11.5 経済学史における位置:諸学派との理論的接続

ヴィクセルの自然利子率理論は、経済学史において独立した理論体系として存在するのではなく、古典派から現代に至る貨幣理論の発展において重要な橋渡し役を果たしている。彼の理論的貢献を正しく理解するためには、先行する理論との関係性と、後続する理論への影響を体系的に検討する必要がある。

古典派の数量説、特にヒュームからリカードに至る伝統的な貨幣理論は、長期的な貨幣と物価の整合関係を明らかにした点で重要な貢献を行った。しかし、これらの理論は貨幣供給量の変化が機械的に物価水準を決定するという因果関係を想定していた。ヴィクセルの革新は、この因果関係の「操作点」を利子率に移し替えたことにある。彼の理論では、貨幣供給は信用需要に対して内生的に反応し、利子率の設定が信用創造と総需要を通じて物価を動かす主要なメカニズムとなる。この視点の転換により、短期的な物価変動の動学をより現実的に説明することが可能になった。

アーヴィング・フィッシャーの貢献(第14章参照)は、ヴィクセルの理論的枠組みと高度に補完的である。フィッシャーは交換方程式(MV = PY)を通じて貨幣と物価の関係を定式化し、さらに名目利子率と実質利子率の関係式(i ≈ r + π^e)を確立した。この実効金利の概念は、期待インフレを通じた名目変数と実質変数の連結メカニズムを明示している。ヴィクセルの累積過程理論は、まさにこの政策金利と期待インフレの相互作用(実質金利の変化)によって累積過程が強化される点を強調しており、フィッシャーの洞察と完全に整合的である。

ケインズの流動性選好理論(第15章参照)は、ヴィクセルの利子率理論をさらに発展させたものと理解することができる。ケインズは短期の金利決定に資産選好を組み込み、利子率が単に実物的要因だけでなく、貨幣的・心理的要因によっても決定されることを明らかにした。現代のニューケインジアン経済学は、価格の粘着性という現実的な仮定の下で「ヴィクセル的ルール」を金融政策の基軸として採用し、この理論的系譜を現代まで継承している。

オーストリア学派、特にハイエクの景気循環理論(第16章参照)は、ヴィクセルの累積過程理論を異なる角度から発展させたものである。ハイエクは、自然利子率より低い銀行利子率が投資の過剰と生産構造の歪み(誤投資)を生み出し、その調整過程において景気後退が不可避となると論じた。この理論は、ヴィクセルの利子率理論に実物的生産構造の視点を加えたものとして評価できる。

スウェーデン学派のリンダールとミュルダールは、ヴィクセルの理論的遺産を直接的に継承し発展させた。特に彼らが導入したex-ante(事前)とex-post(事後)の貯蓄・投資概念の区別は、ヴィクセルの貨幣的均衡理論をより精緻化し、現代のマクロ経済学における期待の役割の理論的基礎を提供した。

11.6 累積過程の数値例:1890年代スウェーデンの経験

ヴィクセルの理論の実践的な意味を理解するために、彼が理論を構築した19世紀末のスウェーデンの実際の経済データを用いて累積過程のメカニズムを具体的に検討してみよう。

1890年代前半のスウェーデンでは、鉄道建設ブームと木材・鉄鉱石の輸出拡大により、実質的な投資収益率(自然利子率に相当)が年率6-7%程度に上昇していた。しかし、スウェーデン国立銀行(Riksbank)の割引率は4%に据え置かれ、商業銀行の貸出金利も5%程度に留まっていた。この状況は、ヴィクセルの理論で言う「i_m < i_n」の典型例であった。

この利子率格差の結果として、以下のような累積過程が展開された。1892年から1896年にかけて、銀行貸出残高は年率15%のペースで拡大し、同時に卸売物価指数は年率3-4%で上昇した。この物価上昇により、名目金利5%、インフレ率3.5%の下で実質金利は1.5%まで低下し、投資の採算性がさらに向上した。企業の設備投資は年率20%を超えるペースで拡大し、鉄道建設関連の雇用は3年間で倍増した。

この累積的拡張過程は1896年まで継続したが、国際的な金融逼迫と穀物価格の下落により外的ショックが加わると、急激に逆転した。Riksbankは割引率を6%まで引き上げざるを得なくなり、商業銀行の貸出金利も8%に上昇した。今度は「i_m > i_n」の状況が生まれ、累積的収縮過程が始動した。1897年から1899年にかけて、銀行貸出は年率10%のペースで収縮し、物価は年率2%で下落、実質金利は10%を超える水準まで上昇した。この結果、多くの鉄道建設プロジェクトが中止され、失業率は3%から8%まで急上昇した。

この歴史的経験は、ヴィクセルの理論的洞察を裏付ける重要な証拠である。利子率の「適切でない」設定が累積過程を引き起こし、外部からの政策介入なしには自動的に修正されないことが実証されている。もしRiksbankが1893年の段階で割引率を6.5%程度まで段階的に引き上げていれば、このような激しい景気循環を回避できた可能性が高い。

11.7 自然利子率の推定問題と現代の課題

ヴィクセルの理論的枠組みを現代の金融政策に適用する上で最も困難な課題は、自然利子率(r*)の推定である。この概念は理論的には明確であっても、実際の政策運営においては直接観測することができない潜在変数である。

現代の中央銀行は、様々な計量経済学的手法を用いてrの推定を試みている。構造ベクトル自己回帰モデル(構造VAR)は、経済変数間の長期的関係を利用してrを識別する。ローバック・ウィリアムズ型の状態空間モデルは、潜在GDPとrを同時に推定し、両者の時間変化を捉える。市場参加者に対するサーベイ調査から得られる金利期待や、債券市場から推計されるタームプレミアも、r推定の重要な情報源となっている。

しかし、これらの推定手法はいずれもモデル依存性の問題を抱えている。異なる手法により推定されたr*の値は、しばしば大きく異なる結果を示す。例えば、2019年時点でのアメリカの実質中立金利について、FRBの推定値は0.5%程度であったが、一部の研究では1.5%を超える値が報告されている。この推定の不確実性は、政策決定に重大な影響を与える。

さらに重要なことは、rが時間とともに変化するということである。生産性成長率の低下、人口動態の変化、グローバルな貯蓄過剰、リスク選好の変化、財政政策の動向、国際資本移動の変化など、様々な構造的要因がrの水準を左右する。2000年代以降、多くの先進国でr*の低下傾向が指摘されており、これは「長期停滞(secular stagnation)」仮説とも関連している。

r*が低位にある世界では、金融政策の運営に新たな課題が生じる。名目政策金利の有効下限(ELB: Effective Lower Bound)または零金利下限(ZLB: Zero Lower Bound)により、従来の利下げによる景気刺激策の余地が限られるためである。この制約を克服するため、中央銀行はフォワードガイダンス(将来の政策方針に関するコミュニケーション)、量的緩和政策、平均インフレ目標制度、価格水準目標制度など、様々な補助的手段を開発している。これらの政策手段は、いずれもヴィクセルの基本的な洞察、すなわち実質金利を自然利子率に近づけることで経済を安定化させるという原理に基づいている。

11.8 理論の限界と現代的批判

ヴィクセルの自然利子率理論は、現代金融政策の理論的基礎として広く受け入れられているが、その実践的応用には重要な限界と課題が存在する。これらの問題点を誠実に検討することは、理論の適用範囲と有効性を正しく理解するために不可欠である。

第一の問題は、測定誤差のリスクである。自然利子率の推定が誤っている場合、政策当局がその誤った推定値に基づいて市場利子率を調整すると、意図せざるインフレーションやデフレーションを累積的に引き起こす可能性がある。例えば、実際の自然利子率が2%であるにもかかわらず、推定値が1%と低く算出された場合、政策金利を過度に低く設定することになり、結果として累積的インフレ過程を誘発してしまう。この測定不確実性の問題は、政策運営において慎重なアプローチと頻繁な見直しを必要とする。

第二に、供給ショックへの対応における困難がある。エネルギー価格や食料価格の急激な変動のような一時的な相対価格ショックに対して機械的に反応すると、過剰な総需要抑制につながる恐れがある。ヴィクセル的政策ルールを適用する際には、一時的な価格変動と持続的な物価トレンドを適切に識別し、コアインフレーションや基調的な物価動向に焦点を当てた政策運営が必要となる。

第三の限界は、経済の複雑性と異質性の問題である。ヴィクセルの理論は単一の「自然利子率」で経済全体を要約するが、現実の経済は多部門から構成され、各部門は異なる金融制約と投資機会に直面している。金融摩擦、企業間の異質性、国際資本移動、地域間格差などの要因により、複数の影響経路が同時に作用し、単純な利子率ルールでは捉えきれない複雑な動学が生じる。

第四に、期待形成と政策伝達の問題がある。ヴィクセル的政策ルールの有効性は、市場参加者がそのルールを理解し、信頼していることに大きく依存している。政策の予見可能性が低く、中央銀行に対する信認が不足している場合、期待形成が不安定化し、累積過程がかえって強化される可能性がある。この問題は、政策コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしている。

最後に、制度的制約の問題がある。ヴィクセルが想定した純信用経済とは異なり、現実の経済では様々な制度的制約が存在する。金本位制や固定相場制の下では、独立した金利調整が制限され、外部アンカーが政策運営を制約する。また、財政政策との協調、国際的な政策協調の必要性、金融システムの安定性への配慮など、複合的な政策目標の下で単純なヴィクセル・ルールを適用することは困難な場合が多い。

これらの限界にもかかわらず、ヴィクセルの基本的洞察は現代においても有効性を保っている。重要なことは、これらの問題を認識した上で、理論を柔軟に応用し、継続的な改善を図ることである。

11.9 結論:ヴィクセルの現代的意義と理論的遺産

クヌート・ヴィクセルの自然利子率理論は、19世紀末のスウェーデンという特定の歴史的文脈から生まれながら、現代の金融政策理論と実務に決定的な影響を与え続けている。彼の理論的貢献の本質は、貨幣を受動的な「ベール」から能動的な経済変動の源泉へと再定義し、利子率という価格メカニズムを通じた政策介入の理論的根拠を提供したことにある。

ヴィクセルが提示した累積過程の概念は、現代の動学的マクロ経済学における期待の役割と政策の信認性の重要性を先取りしていた。自然利子率と市場利子率の乖離が物価水準の累積的変動を引き起こすという洞察は、単なる静学的均衡分析を超えて、時間を通じた経済変動のメカニズムを動学的に捉える視点を提供している。この動学的視点は、現代の新古典派・ニューケインジアン統合において、フォワード・ルッキングな期待形成と政策ルールの相互作用を分析する理論的基礎となっている。

政策実務の観点から見ると、ヴィクセルの理論は現代の中央銀行業務の中核概念を提供している。インフレ目標制度、テイラー・ルール、中立金利(r*)の推定、政策金利による経済安定化といった現代金融政策の主要な構成要素は、いずれもヴィクセルの理論的洞察に直接的な系譜を辿ることができる。2008年の世界金融危機以降に導入された非伝統的金融政策(量的緩和、フォワードガイダンス、イールドカーブ・コントロール)も、実質金利を自然利子率に近づけるというヴィクセルの基本原理を異なる手段で実現しようとする試みと理解することができる。

しかし、ヴィクセル理論の現代的適用には重要な限界も存在する。自然利子率の測定不確実性、経済の複雑性と異質性、供給ショックへの対応、期待形成の複雑さ、制度的制約などの問題は、理論の機械的適用を困難にしている。これらの課題に対処するためには、ヴィクセルの基本的洞察を出発点としながらも、より柔軟で多面的なアプローチが必要となる。

最終的に、ヴィクセルの最も重要な貢献は、特定の政策処方箋を提供したことではなく、貨幣と利子率の関係について根本的に新しい思考枠組みを提示したことにある。彼は、貨幣経済における価格安定の問題を、外生的な数量管理から内生的な価格(利子率)管理へと転換し、現代的な金融政策理論の知的基盤を築いた。この意味において、ヴィクセルは単に過去の経済学者ではなく、現代の我々が直面する金融政策の諸課題を理解するための不可欠な理論的出発点であり続けているのである。


💡 学習ポイント

ヴィクセルの理論を理解する上で最も重要なのは、自然利子率と市場利子率の概念的区別とその乖離が物価動学に与える影響である。両者の乖離は単なる一時的な調整過程ではなく、累積的かつ持続的な物価変動を引き起こす根本的なメカニズムとなる。

純信用経済の概念は、従来の外生的貨幣供給の想定から内生的貨幣供給への視点転換を示している。この枠組みでは、貨幣量そのものよりも金利という価格変数の設定が経済変動の操作点となり、中央銀行の政策手段としての利子率の重要性が浮き彫りになる。

誤った金利設定が累積過程を生み出すという洞察は、中央銀行による系統的な政策反応の必要性を示している。これは現代のテイラー・ルールの理論的基礎となっており、ヴィクセルの洞察を新古典派・ニューケインジアンの枠組みで厳密化したものと理解できる。

最後に、自然利子率(r*)は非観測であり時間変化するという事実は、政策運営における測定不確実性の管理が不可欠であることを意味している。この課題は現代の中央銀行が直面する最も困難な問題の一つであり、継続的な推定手法の改善と慎重な政策運営が求められる。

📚 参考文献


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