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第36章:ヴェルグル減価貨幣実験(Wörgl, 1932–1933)

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世界恐慌下における自由貨幣理論の実践

序論:危機の中から生まれた貨幣実験

1932年7月5日、オーストリア・チロル州の小さな町ヴェルグル(Wörgl)で、世界恐慌の深刻な影響に対処するため、革新的な貨幣実験が始まった。この実験は、シルビオ・ゲゼルの自由貨幣理論(Freigeld)を実際の地域経済に適用した世界初の本格的な試みとして、貨幣史上極めて重要な意義を持つ。

ヴェルグルの人口は当時約4,200人の小さな町であったが、世界恐慌の影響で失業率は30%を超え、市の税収は激減し、公共事業は停滞していた。このような絶望的な状況の中で、市長ミヒャエル・ウンターグッゲンベルガー(Michael Unterguggenberger)は、従来の経済理論では解決できない問題に対して、根本的に異なるアプローチを試みることを決断した。

歴史的文脈:世界恐慌下のオーストリア経済

恐慌の深刻な影響

1929年のニューヨーク株式市場大暴落に端を発した世界恐慌は、オーストリア経済に壊滅的な打撃を与えた。1931年5月のクレディット・アンシュタルト銀行(Creditanstalt)の破綻は、オーストリア金融システム全体を揺るがし、深刻な信用収縮を引き起こした。この銀行危機は中欧全体に波及し、ドイツ、ハンガリーにも深刻な影響を与えた。

オーストリアの工業生産は1929年から1932年にかけて約40%減少し、失業率は1932年には26%に達した。特に地方の小さな町では、主要産業の停滞により経済活動が事実上麻痺状態に陥った。ヴェルグルも例外ではなく、町の主要産業であった製材業と観光業が深刻な不況に見舞われ、多くの住民が職を失った。

流動性の罠と貨幣退蔵

この時期の最も深刻な問題の一つは、ケインズが後に「流動性の罠」と呼ぶことになる現象であった。人々は将来への不安から現金を退蔵し、消費や投資を控えるようになった。この貨幣退蔵は経済活動をさらに萎縮させ、デフレーション・スパイラルを引き起こした。

ゲゼルの理論によれば、この問題の根本原因は貨幣そのものの性質にある。貨幣は腐敗せず、保存コストもかからないため、経済が不安定な時期には人々が貨幣を退蔵するインセンティブが生まれる。これに対して、実物財は時間の経過とともに価値が減少するため、自然に流通が促進される。ゲゼルは、この非対称性を解決するために、貨幣にも「減価」という性質を持たせることを提案した。

ヴェルグル実験の設計と理論的基盤

ゲゼル理論の実践的適用

ウンターグッゲンベルガー市長は、ゲゼルの『自然的経済秩序』(Die natürliche Wirtschaftsordnung, 1916)を深く研究し、その理論を地域経済に適用することを決意した。ゲゼルの理論の核心は、貨幣に「減価」(Demurrage)という性質を持たせることで、貨幣退蔵を防ぎ、経済活動を活性化させるというものである。

この理論的基盤に基づいて、ヴェルグルでは「労働証明書」(Arbeitswertscheine)と呼ばれる地域通貨が発行された。この通貨は、正式には「ヴェルグル市労働価値証明書」(Wörgler Arbeitsbestätigungen)と名付けられ、ドイツ語では「自由貨幣」(Freigeld)や「減価貨幣」(Schwundgeld)とも呼ばれた。

技術的設計の詳細

ヴェルグルの減価貨幣システムは、以下の精緻な設計に基づいて運用された:

券種と発行量

減価メカニズム

流通システム

準備金システム

実験の経済効果:定量的分析

直接的経済指標の改善

ヴェルグル実験は、開始から短期間で顕著な経済効果を示した。以下は、利用可能な統計データに基づく分析である:

雇用の改善

税収の回復

公共事業の実施

貨幣流通速度の革命的変化

ヴェルグル実験の最も注目すべき成果は、貨幣流通速度(velocity of money)の劇的な改善であった。通常のオーストリア・シリングの流通速度が年間約7回であったのに対し、ヴェルグルの減価貨幣は年間約14回の流通速度を記録した。これは、フィッシャーの交換方程式(MV = PT)において、同じ貨幣量(M)でより多くの取引(T)を支えることができることを意味する。

この流通速度の向上は、減価メカニズムが理論通りに機能していることを示している。人々は月末にスタンプ代を支払うことを避けるため、可能な限り迅速に貨幣を使用した。この行動変化が、地域経済全体の活性化をもたらした。

乗数効果の発現

ヴェルグル実験では、ケインズ的な乗数効果も観察された。市が減価貨幣で公共事業の労働者に賃金を支払うと、その労働者たちは迅速に地元商店で消費を行った。商店主たちも同様に、受け取った減価貨幣を素早く仕入れや設備投資に使用した。この連鎖反応により、初期の公共投資額を大幅に上回る経済効果が生まれた。

経済学者の推計によれば、ヴェルグルでの乗数効果は約2.5であった。つまり、1シリング分の減価貨幣発行により、約2.5シリング分の経済活動が創出されたことになる。これは、同時期の通常の財政支出の乗数効果(約1.2-1.4)を大幅に上回る値である。

社会心理学的効果:期待の転換

心理的要因の重要性

ヴェルグル実験の成功において、純粋な経済的メカニズムと同様に重要であったのは、社会心理学的効果である。世界恐慌下で絶望に陥っていた住民たちは、この革新的な取り組みに希望を見出し、将来への期待を改善させた。

この期待の改善は、経済行動に直接的な影響を与えた。消費の先延ばしをやめ、投資や事業拡大に前向きになる住民が増加した。また、他地域からの注目と視察団の訪問により、町の知名度が向上し、観光収入も増加した。

共同体意識の醸成

減価貨幣システムは、単なる経済制度を超えて、共同体の結束を強める役割も果たした。住民たちは、この実験が成功するかどうかが町の将来を左右することを理解し、積極的に協力した。地元商店主たちは、最初は懐疑的であったが、実際に売上が向上すると、システムの維持に積極的に協力するようになった。

この共同体意識の醸成は、現代の地域通貨運動においても重要な要素として注目されている。単なる経済効率の改善だけでなく、社会関係資本(social capital)の向上という副次的効果も生まれることが、ヴェルグル実験から学び取れる重要な教訓である。

実験の終焉:制度的制約との衝突

オーストリア国立銀行の介入

ヴェルグル実験の成功は、オーストリア国内外で大きな注目を集めた。アメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャーは、この実験を「スタンプ・スクリップ」として紹介し、大恐慌対策の有効な手段として推奨した。フランス、ドイツ、スイスなど、約200の自治体がヴェルグルの実験を参考にした類似の制度導入を検討し始めた。

しかし、この成功と拡散の兆しこそが、実験終了の原因となった。1933年9月、オーストリア国立銀行は、ヴェルグル市に対して減価貨幣の発行停止を命令した。その法的根拠は、オーストリア国立銀行法第12条に規定された「通貨発行の独占権」であった。

国立銀行の公式声明によれば、地方自治体による独自通貨の発行は、国家の通貨主権を侵害し、金融政策の統一性を損なうものであった。また、このような実験が全国に拡散すれば、中央銀行による金融政策のコントロールが不可能になるという懸念も表明された。

法的・制度的課題の分析

ヴェルグル実験の終焉は、革新的な貨幣制度と既存の法的・制度的枠組みとの根本的な矛盾を浮き彫りにした。この矛盾は、以下の複数の層で発生していた:

憲法・法律レベル

金融政策レベル

国際的制約

これらの制約は、単にヴェルグル実験に固有の問題ではなく、現代においても地域通貨や仮想通貨が直面している根本的な課題である。

理論的意義:貨幣理論への貢献

ゲゼル理論の実証

ヴェルグル実験は、ゲゼルの自由貨幣理論が実際に機能することを実証した貴重な事例である。特に、以下の理論的予測が現実に確認された:

流動性選好の克服: ケインズが後に定式化した流動性選好理論において、人々が貨幣を保有する動機の一つは「投機的動機」である。将来の不確実性に対する保険として貨幣を保有するこの行動は、経済活動を萎縮させる。ヴェルグルの減価貨幣は、この投機的動機を効果的に抑制し、貨幣を交換手段としての本来の機能に特化させることに成功した。

利子率の自然化: ゲゼルは、貨幣利子が経済成長率を上回ることの弊害を指摘し、「自然利子率」の概念を提唱した。ヴェルグル実験では、減価貨幣の保有コスト(年12%)が実質的な負の利子率として機能し、投資の収益率基準を引き下げる効果を示した。これにより、従来は採算が合わないとされていた公共事業や長期投資が実施可能となった。

現代貨幣理論への示唆

ヴェルグル実験は、現代の貨幣理論にも重要な示唆を提供している:

機能的財政論との関連: アバ・ラーナー(Abba Lerner)の機能的財政論は、政府の財政政策を完全雇用の維持という目標に従属させるべきだと主張した。ヴェルグル実験は、地方レベルでこの原則を実践し、通貨政策を雇用創出に直接結びつけることの有効性を示した。

現代貨幣理論(MMT)との共通点: 現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)は、政府が自国通貨を発行する能力を持つ限り、財政制約は実質的に存在しないと主張する。ヴェルグル実験は、地方レベルでの通貨発行が経済活動を直接的に刺激できることを示し、MMTの基本的な洞察を先取りしていたと言える。

国際的波及効果と類似実験

フィッシャーのスタンプ・スクリップ運動

アメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャーは、ヴェルグル実験の成功に注目し、1933年に『スタンプ・スクリップ』(Stamp Scrip)を出版した。この著作において、フィッシャーはヴェルグルの経験を詳細に分析し、アメリカでも同様の制度を導入することを提案した。

フィッシャーの提案は、アメリカ議会でも真剣に検討された。1933年、下院議員チャールズ・パットマン(Charles Pettman)は、「国家緊急通貨法案」(National Emergency Currency Bill)を提出し、連邦政府による減価貨幣の発行を提案した。この法案は最終的には成立しなかったが、大恐慌対策として減価貨幣が真剣に検討されたことは注目に値する。

ヨーロッパでの類似実験

ヴェルグル実験の成功は、ヨーロッパ各地で類似の実験を誘発した:

ドイツのシュヴァーネンキルヘン実験(1923年): 実際には、ヴェルグル実験以前にドイツで行われた減価貨幣実験である。ハイパーインフレーション下で、バイエルン州シュヴァーネンキルヘン町が発行した「ヴェーラ」(Wära)は、商品バスケットに連動した安定通貨として機能した。この実験もゲゼル理論に基づいており、ヴェルグル実験の先駆けと位置づけられる。

スイスのWIR銀行(1934年設立): ヴェルグル実験の終了直後に設立されたWIR銀行は、減価メカニズムは採用しなかったものの、相互信用システムによる地域経済活性化という点で、ヴェルグル実験の理念を継承した。WIR銀行は現在でも運営されており、スイス中小企業の約6万社が参加する巨大な相互信用システムとなっている。

フランスの地域通貨実験: 1930年代後半、フランスの複数の自治体がヴェルグル型の地域通貨導入を検討した。しかし、フランス銀行(Banque de France)の強い反対により、実際の導入には至らなかった。

現代への示唆:デジタル時代の減価貨幣

技術的実装の可能性

現代のデジタル技術は、ヴェルグル型の減価貨幣をより効率的に実装する可能性を提供している:

ブロックチェーン技術の応用: 分散台帳技術により、中央管理者なしに減価メカニズムを自動実行することが可能である。スマートコントラクトを用いることで、時間経過に応じた自動的な価値減少を透明性高く実装できる。

中央銀行デジタル通貨(CBDC)での応用: 各国が検討している中央銀行デジタル通貨において、政策目的に応じて減価メカニズムを組み込むことが技術的に可能である。景気刺激が必要な時期に限定的に減価機能を活性化することで、より機動的な金融政策が実現できる。

地域通貨プラットフォームの発展: 現代の地域通貨システムの多くは、既にデジタル化されている。これらのシステムに減価メカニズムを追加することは、技術的には比較的容易である。

政策的応用の可能性

ヴェルグル実験の教訓は、現代の経済政策にも重要な示唆を提供している:

景気刺激策としての活用: 従来の金融緩和政策が効果を失った「流動性の罠」の状況において、減価貨幣は強力な景気刺激手段となる可能性がある。特に、デフレーション・スパイラルに陥った経済において、消費と投資を直接的に促進する効果が期待できる。

地域経済活性化政策: 過疎化や産業空洞化に悩む地域において、ヴェルグル型の地域通貨は有効な対策となる可能性がある。ただし、法的・制度的枠組みの整備が前提条件となる。

環境政策との連携: 現代では、経済活動の環境負荷を考慮した政策設計が重要である。減価貨幣のメカニズムを、環境負荷の高い消費を抑制し、持続可能な経済活動を促進する方向に活用することも考えられる。

制度設計上の課題

現代において減価貨幣システムを実装する際には、ヴェルグル実験の経験を踏まえた慎重な制度設計が必要である:

法的枠組みの整備: 通貨発行権、金融政策の統一性、消費者保護など、複数の法的課題を包括的に検討する必要がある。

技術的インフラの構築: デジタル決済システム、セキュリティ対策、プライバシー保護など、技術的な基盤整備が不可欠である。

社会的受容性の確保: 新しい貨幣システムに対する住民の理解と協力を得るための教育・啓発活動が重要である。

学術的評価と批判的検討

実験結果の信頼性

ヴェルグル実験の経済効果については、研究者間で評価が分かれている。実験を高く評価する研究者は、失業率の改善や税収の増加などの定量的指標を重視する。一方、批判的な研究者は、以下の点を指摘している:

統計データの限界: 1930年代の地方統計は現在ほど精密ではなく、実験の効果を正確に測定することは困難である。また、同時期に実施された他の政策の効果と区別することも困難である。

期間の短さ: 実験期間が13ヶ月と短く、長期的な効果や持続可能性を評価することができない。

規模の限界: 小さな町での実験結果を、より大きな経済圏に適用できるかは不明である。

理論的批判

経済学者からは、ヴェルグル実験に対する理論的批判も提起されている:

グレシャムの法則: 「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則によれば、減価する地域通貨よりも価値の安定した法定通貨が選好されるはずである。ヴェルグルでは、地域通貨の使用を市税支払いに義務付けることで、この問題を回避したが、これは市場メカニズムの歪曲とも言える。

代替効果の問題: 減価貨幣による消費刺激は、他の時期や他の地域での消費を単に前倒しまたは移転させただけである可能性がある。真の経済成長ではなく、時間的・空間的な代替効果にすぎないという批判である。

インフレーション・リスク: 減価貨幣が広く普及すれば、過度な消費刺激によりインフレーションを引き起こす可能性がある。ヴェルグル実験では、小規模かつ短期間であったため、この問題は顕在化しなかった。

結論:貨幣制度革新の可能性と限界

ヴェルグル減価貨幣実験は、貨幣制度の根本的な革新が経済危機の解決策となりうることを示した画期的な事例である。シルビオ・ゲゼルの理論的構想が実際に機能することを実証し、貨幣の本質的機能について重要な洞察を提供した。

実験の成果は、単なる経済指標の改善にとどまらない。絶望的な経済状況の中で、住民が希望を取り戻し、共同体として結束して困難に立ち向かう姿は、貨幣制度が社会に与える影響の深さを物語っている。また、この実験が国際的な注目を集め、多くの類似実験を誘発したことは、その理論的・実践的価値の高さを示している。

しかし同時に、実験の終焉は、革新的な貨幣制度が既存の法的・制度的枠組みと衝突する現実も明らかにした。通貨主権、金融政策の統一性、システムの安定性といった課題は、現代においても地域通貨や仮想通貨が直面している根本的な問題である。

現代のデジタル技術は、ヴェルグル型の減価貨幣をより効率的に実装する可能性を提供している。ブロックチェーン技術、中央銀行デジタル通貨、人工知能などの発展により、1930年代には不可能であった精密な制御と透明性の高い運営が実現可能となっている。

ただし、技術的な実装可能性と社会的な受容性は別の問題である。ヴェルグル実験の成功要因の一つは、絶望的な経済状況という背景があったことである。平常時において、人々が既存の貨幣制度に代わる新しいシステムを受け入れるかは不明である。

最終的に、ヴェルグル実験の最大の価値は、貨幣制度が「自然法則」ではなく「社会的構築物」であることを明確に示したことにある。人間社会が直面する問題に応じて、貨幣制度も変革可能であり、変革すべきであるという認識は、現代の経済政策論議においても重要な視点を提供している。

世界が再び経済危機や社会的不平等、環境問題などの深刻な課題に直面している現在、ヴェルグル実験の教訓は新たな意義を持っている。過去の実験から学び、現代の技術と知見を活用して、より良い貨幣制度を構築していくことが、21世紀の重要な課題の一つと言えるであろう。


💡 学習ポイント

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