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第37章:WIR銀行と相互信用通貨システム

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経済危機における代替流動性の制度化

序論:世界恐慌が生んだ金融革新

1934年、世界恐慌の最中のスイスで、16名の実業家によって設立されたWIR経済協同組合(Wirtschaftsring-Genossenschaft、現WIR Bank)は、現代に至るまで90年近く継続する世界最古の相互信用システムである。この制度は、従来の銀行システムが機能不全に陥った状況下で、中小企業間の取引を維持するための代替的流動性供給メカニズムとして誕生した。

WIRシステムの本質は、参加企業間で形成される多角的な債権債務関係を、独自の記帳単位(WIR)によって相殺決済することにある。これは単なる物々交換の延長ではなく、信用創造機能を持つ民間の準貨幣システムとして機能している。重要なことは、このシステムが景気循環に対して逆相関的に作用することが実証的に確認されており、マクロ経済の安定化装置として機能していることである。

37.1 歴史的背景と設立経緯

37.1.1 世界恐慌下のスイス経済

1929年のニューヨーク株式市場大暴落に端を発した世界恐慌は、スイス経済にも深刻な影響を与えた。特に中小企業は、銀行の信用収縮により運転資金の調達が困難となり、企業間の取引決済にも支障をきたしていた。従来の金融システムが流動性不足に陥る中で、実物経済における生産能力と需要は依然として存在していたが、それを媒介する流動性が不足していたのである。

この状況は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで展開されていた自由経済運動(Freiwirtschaftslehre)の理論的背景と合致していた。シルビオ・ゲゼルの減価貨幣論やルドルフ・シュタイナーの社会三層構造論などの影響を受けた実業家たちは、既存の金融システムに依存しない代替的な取引決済システムの必要性を認識していた。

37.1.2 WIR協同組合の設立

1934年10月、チューリッヒで開催された会合において、パウル・エンツ(Paul Enz)を中心とする16名の実業家によってWIR経済協同組合が設立された。設立時の基本理念は以下の通りであった:

第一に、参加企業間の相互扶助による経済的自立の実現。これは、外部の金融機関に依存することなく、企業間の直接的な取引関係を通じて流動性を創出することを意味していた。

第二に、地域経済の循環促進による持続可能な発展。WIR取引は原則として国内企業間で行われるため、資本の海外流出を防ぎ、国内経済の循環を促進する効果が期待された。

第三に、利子なき経済の実現による公正な富の分配。WIRの残高には原則として利子が付かないため、資本の時間的価値に基づく不労所得を排除し、実際の経済活動に基づく価値創造を重視する仕組みとなっている。

37.2 相互信用システムの理論的基盤

37.2.1 信用創造の民間化

WIRシステムの理論的核心は、従来中央銀行と商業銀行が独占してきた信用創造機能を、民間企業のネットワークが担うことにある。これは貨幣理論における根本的な転換を意味している。

従来の銀行システムでは、中央銀行がベースマネーを供給し、商業銀行が信用乗数メカニズムを通じて市中に流動性を供給する。この過程では、銀行が借り手の信用力を評価し、担保や利子を条件として資金を貸し出す。しかし、この仕組みには構造的な問題がある。第一に、銀行の信用収縮期には、実体経済の資金需要があっても流動性供給が制限される。第二に、利子負担により借り手は元本以上の返済を求められるため、システム全体では常に流動性不足の圧力が生じる。

WIRシステムはこの問題に対し、根本的に異なるアプローチを採用している。参加企業は相互に与信枠を設定し、商品・サービスの提供と引き換えにWIR単位での債権を取得する。この債権は他の参加企業への支払いに使用でき、最終的にはネットワーク全体での多角的相殺により決済される。重要なことは、この過程で新たなWIR単位が創造されることである。企業Aが企業BにWIRで支払いを行う際、AのWIR残高がマイナスになり、BのWIR残高がプラスになる。この時点で、ネットワーク全体のWIR供給量は増加している。

37.2.2 流動性の内生的供給

この仕組みの画期的な点は、流動性の供給が経済活動の水準に応じて内生的に決定されることである。従来の銀行システムでは、流動性の供給は銀行の貸出政策や中央銀行の金融政策によって外生的に決定される。そのため、実体経済の資金需要と流動性供給の間にミスマッチが生じやすい。

これに対し、WIRシステムでは、企業間の取引需要に応じて自動的に流動性が供給される。企業が商品を販売すればWIR残高が増加し、購入すれば減少する。ネットワーク全体のWIR供給量は、参加企業の経済活動の総量に比例して変動する。このため、景気拡大期には流動性が自動的に増加し、景気後退期には減少する。ただし、重要なことは、景気後退期においても、企業間の取引需要がある限り、必要な流動性は供給され続けることである。

37.2.3 価値の保存と交換媒体の分離

WIRシステムのもう一つの理論的特徴は、貨幣の価値保存機能と交換媒体機能を意図的に分離していることである。WIR残高には利子が付かないため、価値保存の手段としての魅力は限定的である。これは設計上の意図的な選択であり、WIRを流通促進のための純粋な交換媒体として機能させることを目的としている。

この設計思想は、シルビオ・ゲゼルの自由貨幣論(Freigeld)の影響を受けている。ゲゼルは、貨幣の価値保存機能が流通を阻害し、経済の停滞を招くと論じた。WIRシステムでは、利子の不在により、参加者はWIRを長期間保有するインセンティブを持たず、積極的に使用することが促される。

さらに、WIRシステムでは、価値の保存はスイスフラン建ての資産によって行われる。参加企業はWIRとスイスフランの両方を使用し、長期的な価値保存にはスイスフランを、短期的な取引決済にはWIRを用いる。この二重通貨システムにより、流動性の確保と価値の安定性の両立が図られている。

37.3 制度設計と運営メカニズム

37.3.1 参加資格と与信管理

WIRシステムの健全性は、参加企業の信用力と与信管理の厳格さに依存している。参加を希望する企業は、まず財務状況の審査を受ける。これには、過去数年間の財務諸表、事業計画、既存顧客との取引実績などの提出が求められる。審査を通過した企業には、その信用力に応じて与信枠が設定される。

与信枠は、その企業がWIR残高をマイナスにできる上限額を定めるものである。例えば、与信枠が10万WIRの企業は、WIR残高が-10万WIRまでマイナスになることができる。これは、実質的にその企業がネットワークから10万WIR相当の信用を受けていることを意味する。

与信枠の設定には、複数の要因が考慮される。第一に、企業の財務健全性。自己資本比率、流動比率、収益性などの財務指標が評価される。第二に、事業の安定性。業界の特性、顧客基盤の多様性、事業の継続性などが検討される。第三に、WIRネットワーク内での取引可能性。その企業が提供する商品・サービスに対するネットワーク内の需要の存在が確認される。

37.3.2 取引決済と清算システム

WIR取引の決済は、電子的な口座振替により行われる。参加企業はWIR銀行に口座を開設し、取引の都度、売り手と買い手の口座間でWIRの移転が行われる。この過程は、通常の銀行振込と類似しているが、重要な違いがある。

第一に、WIR取引では、支払者の口座残高が不足していても、与信枠の範囲内であれば取引が実行される。この時、支払者の口座はマイナス残高となるが、これは銀行からの借入ではなく、ネットワーク全体からの信用供与として処理される。

第二に、WIR取引の価格は、原則としてスイスフラン建て価格と同等に設定される。つまり、1WIR = 1スイスフランの等価性が維持される。これにより、参加企業は複雑な為替計算を行うことなく、既存の価格体系をWIR取引にも適用できる。

第三に、多くの取引では、WIRとスイスフランの混合支払いが行われる。例えば、100スイスフランの商品を、70WIR + 30スイスフランで支払うといった具合である。この柔軟性により、参加企業はWIR残高の状況に応じて支払い方法を調整できる。

37.3.3 ネットワーク効果と流動性管理

WIRシステムの効率性は、参加企業の数と多様性に大きく依存している。これは、ネットワーク外部性(network externality)として知られる現象である。参加企業が増加するほど、各企業にとって取引相手を見つける機会が増加し、システム全体の有用性が向上する。

現在、WIRネットワークには約6万社の企業が参加している。これらの企業は、製造業、サービス業、小売業、建設業など多岐にわたる業種に分布している。この多様性により、企業は自社の商品・サービスを販売してWIRを獲得し、他の企業から必要な商品・サービスをWIRで購入するという循環が成立している。

流動性管理の観点では、WIRシステムは自己調整的な特性を持っている。ネットワーク全体のWIR供給量は、参加企業の取引活動に応じて自動的に調整される。景気拡大期には企業の取引が活発化し、WIR供給量が増加する。景気後退期には取引が減少し、WIR供給量も減少する。しかし、重要なことは、景気後退期においても、企業間の取引需要がある限り、必要な流動性は供給され続けることである。

37.4 マクロ経済への影響と実証分析

37.4.1 景気安定化効果の実証

WIRシステムの最も注目すべき特徴は、その景気安定化効果が実証的に確認されていることである。ジェームズ・ストッダー(James Stodder)による一連の研究では、WIR取引量とスイス経済の景気循環の間に明確な逆相関関係があることが示されている。

ストッダーの分析によれば、1948年から2003年までの期間において、WIR取引量の対GDP比は、スイスの実質GDP成長率と-0.73という強い負の相関を示している。これは、景気が悪化するとWIR取引が活発化し、景気が改善するとWIR取引が減少することを意味している。この現象は、WIRが「景気の自動安定化装置」として機能していることを示唆している。

この逆相関関係が生じる理由は、以下のように説明できる。景気後退期には、銀行の信用収縮により企業の資金調達が困難になる。しかし、WIRシステムでは、銀行信用に依存することなく企業間取引を継続できる。そのため、通常の金融システムが機能不全に陥った状況下でも、WIRを通じて経済活動が維持される。逆に、景気拡大期には銀行信用が潤沢に供給されるため、企業はWIRよりも通常の銀行融資を選好し、WIR取引は相対的に減少する。

37.4.2 乗数効果と地域経済への波及

WIR取引の経済効果は、直接的な取引額を超えて、乗数効果を通じて地域経済全体に波及する。これは、WIR取引が主として国内企業間で行われるため、海外への資本流出が抑制され、国内経済循環が促進されることによる。

ベルナール・リエタールとクリスティアン・アルンスベルガーによる推計では、WIR取引の地域経済乗数は約2.3とされている。つまり、1WIRの取引は、最終的に2.3WIR相当の経済活動を創出することになる。この乗数効果は、以下のメカニズムによって生じる。

第一に、WIR取引を受けた企業は、その収入を他のWIR参加企業への支払いに使用する傾向がある。これにより、WIRがネットワーク内を循環し、複数の企業の経済活動を支える。

第二に、WIR取引により流動性制約が緩和された企業は、設備投資や雇用の拡大を行いやすくなる。これにより、WIRネットワーク外の経済主体にも正の効果が波及する。

第三に、WIR取引は主として地域内企業間で行われるため、地域経済の結束が強化され、地域外への資本流出が抑制される。

37.4.3 金融システムの補完機能

WIRシステムは、既存の銀行システムを代替するものではなく、それを補完する役割を果たしている。この補完関係は、以下の点で明確に現れている。

第一に、規模の面では、WIR取引の総額は年間約15億スイスフランであり、これはスイスGDPの約0.2%に相当する。この規模は、既存の金融システムを脅かすものではないが、中小企業にとっては重要な流動性源となっている。

第二に、機能の面では、WIRは短期的な運転資金需要に特化している。長期投資や大規模な設備投資には、依然として銀行融資が必要である。このため、企業は用途に応じてWIRと銀行融資を使い分けている。

第三に、リスク管理の面では、WIRシステムは銀行システムとは異なるリスク特性を持っている。銀行システムは信用リスクと流動性リスクに晒されているが、WIRシステムは主として参加企業の事業リスクに依存している。この違いにより、両システムは相互に補完的な役割を果たしている。

37.5 現代的意義と国際的展開

37.5.1 2008年金融危機における役割

2008年のリーマン・ショックに端を発した世界金融危機は、WIRシステムの有効性を改めて実証する機会となった。この期間において、スイスの銀行システムも深刻な信用収縮に見舞われたが、WIR取引は著しく活発化した。

危機前の2007年におけるWIR取引額は約12億スイスフランであったが、2009年には約17億スイスフランまで増加した。これは約42%の増加であり、同期間におけるスイス経済の収縮(実質GDP成長率-1.9%)とは対照的な動きを示している。

この現象は、WIRシステムが金融危機時における「最後の貸し手」的な役割を果たしていることを示している。銀行が信用供給を制限する状況下でも、WIRシステムは参加企業に対して継続的な流動性を提供し、経済活動の維持に貢献した。

37.5.2 デジタル化と技術革新

近年、WIR銀行はデジタル技術の活用による業務効率化とサービス向上に取り組んでいる。2018年に導入された新しいオンラインプラットフォーム「WIR Market」では、参加企業が商品・サービスの売買をより効率的に行えるようになった。

このプラットフォームには、以下の機能が搭載されている。第一に、マッチング機能。企業の需要と供給を自動的にマッチングし、取引機会を創出する。第二に、評価システム。取引相手の信頼性を評価し、リスク管理を支援する。第三に、分析ツール。企業の取引パターンを分析し、最適な取引戦略を提案する。

さらに、ブロックチェーン技術の導入も検討されている。これにより、取引の透明性と安全性が向上し、国際的な展開も容易になると期待されている。

37.5.3 他国での類似システムの展開

WIRシステムの成功を受けて、世界各国で類似の相互信用システムが設立されている。最も成功している例の一つが、イタリアのサルデーニャ島で運営されているSardexである。

Sardexは2009年に設立され、現在約4,000社の企業が参加している。年間取引額は約5,000万ユーロに達し、地域経済の活性化に貢献している。Sardexの特徴は、WIRシステムよりも積極的なマーケティングとビジネスマッチングを行っていることである。専任のアカウントマネージャーが参加企業を訪問し、取引機会の創出を支援している。

その他にも、アルゼンチンのRed Global de Trueque(RGT)、ウルグアイのRed de Trueque、ブラジルのBanco Palmasなど、様々な国で相互信用システムが運営されている。これらのシステムは、それぞれの国の経済状況や文化的背景に応じて独自の特徴を持っているが、基本的な仕組みはWIRシステムに準拠している。

37.6 課題と今後の展望

37.6.1 スケーラビリティの限界

WIRシステムが直面する最大の課題の一つは、スケーラビリティの限界である。現在のWIRネットワークには約6万社が参加しているが、これをさらに拡大することには構造的な困難がある。

第一に、ネットワーク密度の問題。相互信用システムが効率的に機能するためには、参加企業間で多角的な取引関係が成立する必要がある。しかし、参加企業数が増加するにつれて、各企業が直接取引できる相手の割合は減少する。これにより、システム全体の効率性が低下する可能性がある。

第二に、与信管理の複雑化。参加企業数の増加に伴い、各企業の信用評価と与信枠の設定がより困難になる。特に、新規参加企業の信用力を正確に評価することは、既存参加企業の利益保護の観点から重要である。

第三に、法的・規制的制約。WIRシステムが大規模化すると、金融当局による規制の対象となる可能性が高まる。これにより、システムの柔軟性が制限され、運営コストが増加する恐れがある。

37.6.2 デジタル通貨との競合

近年の暗号通貨やデジタル通貨の普及は、WIRシステムにとって新たな競争環境を創出している。特に、中央銀行デジタル通貨(CBDC)の導入が進めば、WIRシステムの競争優位性が低下する可能性がある。

CBDCは、中央銀行が発行するデジタル形態の法定通貨であり、即座の決済、低コスト、高い安全性などの特徴を持っている。もしスイス国立銀行がCBDCを導入すれば、中小企業はWIRよりもCBDCを選好する可能性が高い。

この課題に対し、WIR銀行は独自の付加価値の創出に取り組んでいる。具体的には、単なる決済手段としての機能を超えて、ビジネスマッチング、信用評価、経営支援などの包括的なサービスを提供することで、差別化を図っている。

37.6.3 持続可能性と社会的責任

環境問題や社会的格差の拡大を背景として、WIRシステムにも持続可能性と社会的責任への配慮が求められている。現在、WIR銀行は以下の取り組みを進めている。

第一に、環境配慮型企業の優遇。再生可能エネルギーの利用や廃棄物削減に取り組む企業に対して、与信条件の優遇や手数料の割引を提供している。

第二に、地域社会への貢献。WIR取引の一部を地域の社会事業や教育機関への寄付に充てる仕組みを導入している。

第三に、透明性の向上。年次報告書において、WIRシステムの社会的・環境的影響を定量的に評価し、公表している。

これらの取り組みにより、WIRシステムは単なる経済的効率性の追求を超えて、持続可能な社会の実現に貢献することを目指している。

結論:相互信用システムの貨幣論的意義

WIR銀行の90年にわたる実践は、貨幣制度の多様性と適応性を示す重要な事例である。このシステムは、中央集権的な金融システムの限界を補完する分散型の流動性供給メカニズムとして機能し、特に経済危機時におけるその有効性が実証されている。

理論的には、WIRシステムは信用創造の民間化、流動性の内生的供給、貨幣機能の分離という三つの革新的要素を組み合わせることで、従来の金融理論では説明困難な安定性を実現している。これは、貨幣が必ずしも中央権力による独占的発行を必要とせず、適切な制度設計の下では民間主体による自律的な運営が可能であることを示している。

実践的には、WIRシステムは中小企業の流動性制約を緩和し、地域経済の循環を促進することで、マクロ経済の安定化に寄与している。その効果は定量的に測定可能であり、政策立案者にとって貴重な知見を提供している。

今後の展望としては、デジタル技術の活用による効率化、国際的な展開の可能性、持続可能性への配慮などが重要な課題となる。しかし、WIRシステムの根本的な価値は、経済主体間の相互信頼に基づく協力的関係の構築にあり、これは技術革新によっても変わることのない普遍的な原理である。


💡 学習ポイント

📚 参考文献

主要学術文献

WIR銀行公式資料

比較研究・国際事例

理論的背景

政策・規制研究


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