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不動産主導成長モデルの限界とシステミックリスク
2020年代に入って顕在化した中国の不動産バブル危機は、単なる市場調整を超えて、中国経済の構造的転換点を象徴する重大な事象である。この危機は、改革開放以来40年間にわたって中国経済成長を牽引してきた不動産主導成長モデルの限界を露呈し、貨幣論的観点からは信用創造メカニズムの歪みと金融システムの脆弱性を浮き彫りにした。
危機の本質は、不動産デベロッパーの過度なレバレッジ、地方政府の土地財政依存、家計の資産偏重という三つの構造的歪みが相互に強化し合う中で、政府の金融引き締め政策が引き金となって連鎖的な信用収縮を引き起こしたことにある。特に恒大集団(China Evergrande Group)を筆頭とする大手デベロッパーの経営破綻は、中国の金融システムが抱える「大きすぎて潰せない」問題と、市場メカニズムと国家介入の複雑な相互作用を示している。
中国の不動産主導成長モデルの起源は、1978年の改革開放政策と1998年の住宅制度改革に遡る。計画経済下では住宅は国有企業や政府機関が職員に無償配給する「福利厚生」であったが、市場経済への移行に伴い住宅の商品化が進められた。この過程で重要な役割を果たしたのが、朱鎔基首相(当時)による住宅金融制度の整備である。
住宅制度改革は、表面的には計画経済から市場経済への移行を意味したが、貨幣論的観点から見ると、住宅という実物資産を担保とした信用創造メカニズムの確立を意味していた。銀行システムが住宅ローンを通じて家計に信用を供与し、その資金が不動産開発に流れることで、実物投資と金融拡張が相互に強化する循環が生まれた。これは、シュンペーターが論じた「創造的破壊」を伴う投資ブームの典型例と言える。
中国の不動産バブルを理解する上で欠かせないのが、1994年の分税制改革によって確立された「土地財政」システムである。この改革により、中央政府は主要税目の徴収権を握る一方、地方政府には支出責任を課したため、地方政府は財源確保のため土地使用権の売却に依存するようになった。
土地財政システムは、貨幣論的には極めて興味深い構造を持っている。地方政府は土地という実物資産を「商品化」し、その売却代金を財政収入として活用することで、実質的に土地の将来価値を現在価値に転換する時間裁定取引を行っている。これは、ジョージ・ソロスが論じた「再帰性理論」の実例でもある。すなわち、土地価格の上昇期待が実際の土地需要を創出し、それがさらなる価格上昇を生む自己強化的な循環である。
2019年時点で、全国の地方政府土地使用権売却収入は7兆3000億元に達し、地方一般公共予算収入の約75%に相当した。この数字は、中国経済がいかに土地価値の上昇に依存していたかを物語っている。
中国不動産市場の特徴的な制度として、プリセール(預售制度)がある。これは、建設完了前の住宅を販売する制度で、1994年に導入されて以来、中国不動産市場の標準的な販売方式となった。プリセールモデルは、デベロッパーにとって資金調達の手段であると同時に、購入者にとっては価格上昇リスクを回避する手段でもあった。
しかし、貨幣論的観点から見ると、プリセールモデルは信用創造の時間構造を根本的に変化させた。通常の商取引では、商品の引き渡しと代金支払いが同時に行われるが、プリセールでは購入者が将来の住宅供給に対して現在の貨幣を支払う。これは、住宅という実物資産に対する「先物契約」の性格を持ち、デベロッパーは実際の生産活動に先立って流動性を獲得できる。
この仕組みは好況期には効率的な資本配分を実現したが、市場環境が悪化すると深刻な問題を引き起こした。2021年以降、多くのデベロッパーが資金繰り悪化により建設を中断し、購入者が住宅ローンの支払いを拒否する「断供」現象が全国に拡散した。これは、プリセールモデルが内包する時間リスクが顕在化した結果である。
2020年8月、中国政府は不動産デベロッパーに対する新たな財務規制「三条紅線」(三つのレッドライン)を導入した。この政策は、以下の三つの財務指標によってデベロッパーを分類し、融資制限を課すものである:
この三つの指標をすべて満たすデベロッパーは「緑」、一つまたは二つ違反する企業は「黄」、三つとも違反する企業は「紅」に分類され、分類に応じて有利子負債の増加率に上限が設けられた。
「三条紅線」政策は、表面的には金融リスクの抑制を目的としているが、貨幣論的観点から見ると、信用創造メカニズムの根本的な変更を意味した。これまで不動産セクターが享受してきた「暗黙の政府保証」を撤回し、市場メカニズムによるリスク評価を導入したのである。これは、ミンスキーが論じた「金融不安定性仮説」における政策当局の役割変化の典型例である。
「三条紅線」政策の最初の犠牲者となったのが、中国最大の不動産デベロッパーである恒大集団(China Evergrande Group)である。2021年時点で恒大集団の総負債は約1.97兆元(約34兆円)に達し、うち有利子負債は約7,000億元であった。同社は三条紅線のすべてに違反する「紅」企業に分類され、新規融資の獲得が困難になった。
恒大集団の経営モデルは、中国不動産業界の典型的な特徴を体現していた。同社は不動産開発事業を中核としながら、自動車製造、スポーツクラブ経営、テーマパーク開発、金融サービスなど多角的な事業展開を行っていた。この多角化は、表面的には事業リスクの分散を目的としていたが、実際には不動産事業で得た資金を他事業に投入する「内部補助」の仕組みであった。
2021年9月、恒大集団は社債の利息支払いを延期し、事実上のデフォルト状態に陥った。これを契機として、中国の不動産市場では信用収縮が急速に進行した。銀行は不動産関連融資に慎重になり、購入者もプリセール物件の購入を控えるようになった。この現象は、フィッシャーが論じた「債務デフレーション」の初期段階と見ることができる。
恒大集団をはじめとするデベロッパーの経営悪化は、深刻な社会問題を引き起こした。資金繰り悪化により建設が中断された住宅プロジェクトが全国で1,600件以上に達し、購入者が住宅ローンの支払いを拒否する「断供」(住宅ローン支払い停止)現象が広がった。
断供現象は、プリセールモデルが内包するリスクが顕在化した結果である。購入者は住宅の引き渡しを受けていないにも関わらず、住宅ローンの支払い義務を負っている。建設が中断されると、購入者は「存在しない住宅」に対してローンを支払い続けることになる。2022年7月時点で、全国326都市の1,400以上のプロジェクトで断供が発生し、関係する住宅ローン残高は約2兆元に達した。
この問題は、契約理論の観点から見ると「不完備契約」の典型例である。プリセール契約では、建設遅延や中断に対する明確な救済措置が定められておらず、購入者は法的に弱い立場に置かれていた。政府は事態の深刻化を受けて、「保交楼」(住宅引き渡し保証)政策を導入し、銀行融資や政府資金を活用して建設続行を支援したが、根本的な解決には至っていない。
中国の不動産バブルとその崩壊過程は、信用創造理論の観点から重要な示唆を提供する。ヴィクセルの累積過程理論、ミンスキーの金融不安定性仮説、オーストリア学派の景気循環理論など、複数の理論的枠組みから分析することで、危機の本質をより深く理解できる。
ヴィクセルの累積過程理論の適用: 中国の不動産ブームは、ヴィクセルが論じた「自然利子率」と「市場利子率」の乖離によって説明できる。金融抑圧により人為的に低く抑えられた市場利子率は、不動産投資の自然利子率を下回り、過剰投資を促進した。2020年の政策転換は、この乖離を是正する試みと見ることができる。
ミンスキーの金融不安定性仮説の検証: 中国の不動産市場では、ミンスキーが論じた「ヘッジ金融」→「投機的金融」→「ポンジー金融」への段階的移行が観察された。初期段階では、不動産投資は賃貸収入や転売益により元利返済が可能であった(ヘッジ金融)。しかし、価格上昇が続くにつれて、キャピタルゲインへの依存度が高まり(投機的金融)、最終的には新規借入れによって既存債務を返済する状況(ポンジー金融)に陥った。
オーストリア学派の資本理論からの考察: ハイエクの資本理論によれば、人為的な信用拡張は生産構造の時間的配分を歪め、過度に迂回的な生産過程への投資を促進する。中国の不動産ブームでは、短期的な消費需要を超えた住宅建設が行われ、資本の「不正投資」(malinvestment)が大規模に発生した。2020年代の調整過程は、この歪んだ資本構造の修正過程と見ることができる。
中国政府の不動産危機への対応は、段階的で包括的なアプローチを採用した。2022年後半からの政策転換では、以下の措置が講じられた:
金融政策の調整:
財政支援措置:
これらの政策は、貨幣論的観点から見ると「流動性の罠」からの脱却を目指すものである。不動産市場の信用収縮により、通常の金融政策の効果が限定的になる中で、政府は直接的な財政支援と制度改革を組み合わせた包括的なアプローチを採用した。
中国の不動産危機から得られる政策的教訓は、多岐にわたる。これらの教訓は、中国のみならず、類似の発展段階にある新興国にとっても重要な参考となる。
金融政策運営の教訓:
制度設計の教訓:
社会政策の教訓:
中国経済は、不動産主導成長モデルからの脱却を迫られており、新たな成長モデルの構築が急務となっている。この転換は、単なる産業構造の変化を超えて、経済システム全体の再設計を伴う大規模な変革である。
新成長モデルの要素:
金融システムの進化:
中国の不動産バブル危機は、改革開放以来の中国経済発展モデルの歴史的転換点を象徴する出来事である。この危機は、単なる市場の循環的調整ではなく、中国経済の構造的変革を促す触媒として機能している。
貨幣論的観点から見ると、この危機は信用創造メカニズムの歪み、金融抑圧体制の限界、資産価格と実体経済の乖離など、現代貨幣経済が抱える根本的な問題を浮き彫りにした。特に、土地を基軸とした信用創造システムが限界に達したことは、貨幣制度そのものの再検討を促している。
政策対応の観点では、中国政府の段階的で包括的なアプローチは、急激な市場調整によるシステミックリスクを回避しつつ、構造改革を推進する現実的な戦略として評価できる。しかし、根本的な問題解決には、金融制度改革、財政制度改革、住宅制度改革を含む包括的な制度改革が必要である。
国際的な視点では、中国の経験は他の新興国にとって重要な教訓を提供している。特に、不動産主導成長モデルの限界と、持続可能な発展モデルへの転換の必要性は、多くの国が直面する共通の課題である。
最終的に、中国の不動産危機は終わりではなく始まりである。この危機を通じて、中国経済はより成熟した、持続可能な発展軌道への転換を図ろうとしている。その成否は、中国のみならず世界経済の将来に大きな影響を与えるであろう。
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