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18世紀初頭のヨーロッパにおいて、ジョン・ロー(John Law, 1671–1729)ほど貨幣理論と実践を劇的に結合させた人物は存在しない。スコットランド出身の数学者・賭博師・金融業者であったローは、1705年の『貨幣と商業に関する考察』(Money and Trade Considered)において、従来の金属主義的貨幣観を根本から覆す革新的な信用貨幣理論を提唱した。彼の理論的洞察は、貨幣を単なる交換媒体ではなく「商業のエンジン」として捉え、適切に管理された信用の拡大が経済全体の活性化をもたらすという確信に基づいていた。
ローの理論が単なる机上の空論ではなく、実際の経済政策として試されたのが、1716年から1720年にかけてフランスで実施された「システム」(le Système)である。摂政フィリップ・ドルレアン公の支援を得て、ローはバンク・ジェネラル(後のバンク・ロワイヤル)の設立とミシシッピ会社の運営を通じて、史上初の本格的な紙幣制度と国家規模の信用創造システムを構築した。この壮大な実験は、一時的には目覚ましい成功を収めたものの、最終的には信用崩壊とインフレーションによる破綻に終わった。
ローの事例は、信用貨幣の持つ巨大な潜在力と同時に、その制度設計の困難さを歴史的に実証した貴重な教訓である。彼の理論と実践は、後のカンティロンやヒュームの貨幣理論に決定的な影響を与え、現代の中央銀行制度や金融政策の理論的基盤の形成にも重要な示唆を提供している。
ジョン・ローがフランスに到着した1714年、この王国は深刻な財政危機に直面していた。スペイン継承戦争(1701-1714)の長期化により、フランス王室の債務は約20億リーヴルに達し、年間歳入の約10倍という持続不可能な水準に膨らんでいた。この危機的状況は、単なる財政問題を超えて、フランス経済全体の構造的欠陥を露呈していた。
第一に、貨幣制度の機能不全が深刻化していた。長年にわたる戦争により、金銀の流出が続き、国内に流通する硬貨は質的にも量的にも不足していた。特に、硬貨の縁削り(クリッピング)や品位の低い偽造貨幣の横行により、実際の金銀含有量と額面価値の乖離が拡大し、商人たちは取引ごとに貨幣の品質を検証する必要に迫られていた。この状況は取引コストの増大をもたらし、商業活動の停滞を招いていた。
第二に、税制システムの非効率性が経済活動を阻害していた。フランスの税収の大部分は、税農請負人(fermiers généraux)による前貸しシステムに依存していた。このシステムでは、税農請負人が国家に対して税収を前払いし、実際の徴収権を獲得するという構造になっていた。しかし、この制度は高い利子負担を国家に課すとともに、税農請負人による過度の搾取を生み、農民や商人の経済活動を圧迫していた。
第三に、信用制度の未発達が資本の効率的配分を妨げていた。当時のフランスには組織的な銀行制度が存在せず、商業手形の割引や長期資金の調達は主に個人的な関係に基づいて行われていた。この状況は、特に遠隔地間の商取引や大規模な事業投資において深刻な制約となっていた。
ローは、これらの問題が相互に関連し合い、フランス経済の「血液循環」を阻害していると診断した。彼の分析によれば、貨幣不足は単に金銀の物理的な不足ではなく、効率的な決済システムと信用創造メカニズムの欠如に起因していた。この洞察こそが、後に「システム」と呼ばれる包括的な金融制度改革の理論的基盤となったのである。
ローの貨幣理論の革新性は、貨幣を静的な価値貯蔵手段から動的な「商業のエンジン」として再定義した点にある。1705年の『貨幣と商業に関する考察』において、彼は従来の重商主義的な金銀蓄積論を根本的に批判し、貨幣の機能を経済活動の促進という観点から再構築した。
ローの理論的出発点は、貨幣供給量と経済活動水準の間に存在する正の相関関係の認識であった。彼は、十分な貨幣供給が確保されることにより、以下の経済的メカニズムが作動すると論じた。
まず、貨幣供給の増加は取引の円滑化をもたらす。貨幣不足の状況では、商人は決済手段の確保に多大な時間と労力を費やさなければならず、これが取引コストの増大と商業活動の停滞を招く。しかし、適切な貨幣供給が実現されれば、こうした摩擦的な取引コストは大幅に削減され、商業の「回転速度」が向上する。
次に、貨幣供給の拡大は利子率の低下をもたらす。ローの分析によれば、利子率は貨幣の需給関係によって決定される。貨幣供給が不足している状況では、借り手間の競争が激化し、利子率は高水準で推移する。逆に、十分な貨幣供給が確保されれば、貸し手間の競争が活発化し、利子率は自然に低下する。この利子率の低下は、投資活動の活性化と経済成長の促進をもたらす。
さらに、貨幣供給の増加は遊休資源の活用を可能にする。ローは、当時のフランスにおいて、労働力や土地といった生産要素が十分に活用されていない状況を観察していた。彼の理論では、貨幣不足がこうした遊休資源の活用を妨げる主要因であり、適切な貨幣供給の実現により、これらの資源を生産的な用途に振り向けることが可能になると考えられていた。
ローの貨幣理論のもう一つの重要な側面は、貨幣価値の決定要因に関する洞察である。彼は、貨幣価値が単純に金銀の希少性によって決定されるのではなく、社会的な受容性(acceptability)と制度的な信認によって支えられていると論じた。
この観点から、ローは公的な銀行制度の重要性を強調した。彼の構想では、国家の課税権力、国庫の信用力、さらには地代や通行権といった安定的な収入源と結びついた銀行が発行する銀行券は、金銀貨幣と同等、あるいはそれ以上の信認を獲得することが可能であった。なぜなら、こうした銀行券は、国家権力という究極的な担保によって裏付けられており、その価値の安定性は金銀の物理的な希少性よりもむしろ確実だからである。
ローの理論において特に注目すべきは、貨幣の流通速度に対する着目である。彼は、経済活動の活性化にとって重要なのは、単純な貨幣量の増加ではなく、貨幣の流通速度の向上であると考えていた。金銀を地金として貯蔵することは、確かに富の蓄積という意味では価値があるが、経済全体の観点からは非生産的な行為である。これに対して、銀行券や手形といった信用手段を通じて貨幣の流通速度を高めることは、同一の貨幣量でより多くの取引を支えることを可能にし、経済活動の大幅な拡大をもたらす。
この洞察は、当時の重商主義的思考とは根本的に異なるものであった。重商主義者たちが金銀の蓄積を国富の源泉と考えていたのに対し、ローは貨幣の活発な流通こそが真の繁栄をもたらすと主張した。この理論的転換は、後の経済学における貨幣数量説の発展や、現代の金融政策理論にも重要な影響を与えることになった。
ローの貨幣理論は、このように、ジョン・ロックの金属主義的な貨幣観とは対照的な「信用理論」の先駆的な形態を示していた。彼の理論的貢献は、貨幣を単なる交換媒体から経済成長の能動的な推進力として捉え直した点にあり、これが後の「システム」の実践的基盤となったのである。
ローの理論的構想が現実の政策として実現されたのは、1716年5月2日のバンク・ジェネラル(Banque Générale)の設立である。この銀行の創設は、単なる民間金融機関の設立を超えて、フランスの金融制度全体を根本的に変革する壮大な実験の第一歩であった。
バンク・ジェネラルは、当時のヨーロッパにおいても前例のない多機能型の金融機関として設計された。その主要な機能は以下の通りであった。
第一に、兌換可能な銀行券の発行である。この銀行券は「見せ札」(billets à vue)と呼ばれ、持参人が要求すれば即座に金銀硬貨との交換が保証されていた。重要なのは、この銀行券が単なる預金証書ではなく、独立した流通手段として設計されていた点である。銀行券には「銀行は持参人に対して○○リーヴルを支払う」という文言が記載され、これにより銀行券は事実上の紙幣として機能した。
第二に、商業手形の割引業務である。商人たちが保有する手形を銀行が買い取り、満期前に現金化することを可能にした。この機能により、商取引の決済期間が大幅に短縮され、商業活動の回転速度が向上した。特に、遠隔地との取引において、この手形割引機能は決定的な意味を持った。
第三に、振替決済システムの提供である。銀行に口座を開設した顧客は、現金の受け渡しなしに帳簿上の記録変更のみで決済を完了することができた。このシステムにより、大額の取引における盗難リスクや輸送コストが大幅に削減された。
バンク・ジェネラルの成功にとって決定的だったのは、その銀行券が社会的な受容性を獲得する過程であった。当初、民間銀行の発行する紙片に対する一般民衆の信頼は限定的であった。しかし、1717年4月10日の勅令により、税金の支払いに銀行券の使用が認められると、状況は劇的に変化した。
税支払いへの受入れ承認は、銀行券に準法貨としての地位を与える効果を持った。なぜなら、すべての国民が税金を支払う義務を負っている以上、税支払いに使用可能な銀行券は、事実上すべての国民にとって価値のある資産となったからである。この措置により、銀行券の流通量は急速に拡大し、1717年末までに約1000万リーヴル相当の銀行券が流通していた。
さらに重要だったのは、銀行券の品質が金銀硬貨よりも優れていた点である。当時流通していた硬貨は、前述の通り、縁削りや品位の劣化により、その価値の判定が困難であった。これに対して、銀行券は統一された規格で印刷され、偽造防止の措置も講じられていたため、商人たちにとってはむしろ硬貨よりも使いやすい決済手段であった。
1718年12月4日、バンク・ジェネラルは国有化され、バンク・ロワイヤル(Banque Royale)と改称された。この変化は、単なる所有形態の変更を超えて、フランスの金融制度における根本的な構造変化を意味していた。
国有化により、銀行は国家の直接的な管理下に置かれ、その発券業務は事実上の国家機能となった。これにより実現されたのは、「財政—通貨の統合システム」であった。具体的には、以下の変化が生じた。
まず、銀行券の法的地位が大幅に強化された。国家銀行の発行する銀行券は、もはや民間機関の債務証書ではなく、国家の信用力に裏付けられた準公的な通貨となった。この変化により、銀行券の受容性はさらに拡大し、1719年には流通量が約1億リーヴルに達した。
次に、国債管理における銀行の役割が決定的となった。政府は銀行券を用いて国債の利払いを行い、また既存の高利の国債を低利の銀行債務に借り換えることが可能になった。この措置により、政府の利払い負担は大幅に軽減された。例えば、従来8-10%の利率で調達していた資金を、実質的に3-4%の利率で調達することが可能になった。
さらに、貨幣制度の統一管理が実現された。金銀硬貨の再鋳や評価替えが銀行を通じて系統的に行われ、従来の混乱した貨幣制度に秩序がもたらされた。
このような「システム」の発展は、ローの理論的構想が現実の政策として具現化される過程を示していた。しかし同時に、この統合システムは後の破綻の種子も内包していた。財政と通貨の一体化は、確かに短期的な効率性をもたらしたが、長期的には発券規律の弛緩とインフレーション圧力の蓄積を招くことになったのである。
ローの「システム」が真に革命的な性格を帯びたのは、1717年8月のミシシッピ会社(Compagnie du Mississippi)設立以降である。この会社の創設は、単なる植民地貿易会社の設立を超えて、銀行業務、国債管理、植民地開発、税収請負を統合した前例のない経済システムの構築を意味していた。
ミシシッピ会社は、当初ルイジアナ植民地における貿易独占権を付与された会社として出発した。しかし、ローの構想では、この会社は単なる貿易会社ではなく、フランス経済全体の構造改革を担う中核的機関として位置づけられていた。
1718年から1719年にかけて、ミシシッピ会社は急速にその事業範囲を拡大した。まず、1718年9月には東インド会社、中国会社、アフリカ会社を吸収し、フランスの海外貿易を一手に担う巨大複合企業となった。さらに、1719年7月には税農請負権を獲得し、国家の税収徴収業務を担うことになった。同年9月にはタバコ専売権、10月には造幣権と関税徴収権を獲得し、最終的には「コンパニー・デ・ザンド」(Compagnie des Indes)として、フランス経済の基幹的機能を統合的に管理する超巨大企業となった。
この統合プロセスの経済的論理は明確であった。従来、これらの特権は個別の請負人や会社によって分散的に管理されており、それぞれが高い利益率を要求していた。これらを単一の会社に統合することにより、管理コストの削減と効率性の向上が期待された。特に重要だったのは、税農請負の統合である。従来の税農請負人が国家に対して年間約8000万リーヴルを前払いしていたのに対し、ミシシッピ会社は年間5200万リーヴルの支払いで同じ権利を獲得した。この差額約2800万リーヴルは、国家財政の改善に直結する巨額の節約であった。
ローの「システム」の最も革新的な側面は、既存の国債を会社株式に転換するスキームの導入であった。この仕組みは、財政危機の解決と民間資本の動員を同時に実現する画期的な手法であった。
具体的なメカニズムは以下の通りであった。政府は、既存の国債保有者に対して、その国債をミシシッピ会社の株式と交換することを奨励した。国債保有者にとって、この交換は魅力的な選択肢であった。なぜなら、従来の国債は利払いの遅延や元本の減額リスクを常に抱えていたのに対し、ミシシッピ会社の株式は配当の増加と株価上昇の可能性を秘めていたからである。
この転換プロセスにより、約16億リーヴル相当の国債が株式に転換された。これは当時のフランスの総債務の約8割に相当する巨額であった。政府にとって、この転換は債務負担の劇的な軽減を意味していた。従来の高利の債務が、実質的に株式配当という変動的な負担に置き換えられたからである。
ミシシッピ会社の株式と銀行券の間には、複雑な相互作用が生じていた。この相互作用こそが、「システム」の栄光と破綻の両方をもたらした核心的メカニズムであった。
株式の購入は主として銀行券によって行われた。投資家たちは、バンク・ロワイヤルから銀行券を借り入れ、それを用いてミシシッピ会社の株式を購入した。株価が上昇すると、株式を担保として追加の銀行券借入が可能になり、それがさらなる株式購入を可能にした。この「信用—資産価格—信用」の正のフィードバック・ループにより、1719年から1720年初頭にかけて、ミシシッピ会社の株価は額面500リーヴルから最高18,000リーヴルまで、実に36倍に暴騰した。
この株価上昇は、単なる投機的バブルではなく、一定の経済的合理性を持っていた。ミシシッピ会社が獲得した各種特権の価値を合計すれば、確かに巨額の収益が期待できた。特に、ルイジアナ植民地の金鉱開発への期待や、海外貿易の拡大による収益増加の可能性は、投資家たちの楽観的な期待を支える根拠となっていた。
しかし、この相互作用システムには本質的な脆弱性が内在していた。株価の上昇が銀行券の発行増加を促し、それがさらなる株価上昇を生む循環は、実体経済の成長を大きく上回るペースで進行していた。1720年初頭までに、銀行券の発行残高は約27億リーヴルに達し、これは1716年時点の約270倍という異常な拡大であった。この過度な信用拡大は、やがてシステム全体の信認を揺るがす要因となったのである。
1720年春、ローの「システム」は急速な崩壊を迎えた。この崩壊は、単なる投機的バブルの破綻ではなく、信用貨幣制度の構造的限界を露呈する歴史的事件であった。崩壊の過程を詳細に検討することは、信用制度の設計における根本的な教訓を提供する。
システム崩壊の直接的な引き金となったのは、銀行券の兌換性に対する市場の疑念の拡大であった。1720年2月、政府は金銀の個人保有を制限し、一定額以上の金銀を銀行に預託することを義務づける勅令を発した。この措置は、表面的には貨幣制度の統一を目的としていたが、実際には金銀の流出を防ぐための緊急措置であった。
この勅令は、市場に深刻な不安を与えた。なぜなら、真に安定した紙幣制度であれば、金銀の保有を制限する必要はないはずだからである。投資家たちは、政府が兌換停止を準備しているのではないかと疑い始めた。この疑念は、銀行券から金銀への転換要求の急増として現れた。
3月5日、政府はついに銀行券と金銀の兌換比率を段階的に切り下げることを発表した。具体的には、銀行券の価値を月々5%ずつ切り下げ、12月までに額面の半分まで減価させるという内容であった。この発表は、市場に決定的な打撃を与えた。兌換比率の切り下げ予告は、事実上の銀行券価値の毀損宣言であり、これにより銀行券に対する信頼は完全に失われた。
兌換比率切り下げの発表を受けて、パリでは銀行券の金銀への転換を求める人々が銀行に殺到した。この「取り付け騒ぎ」は、システムの物理的な限界を露呈した。銀行の金銀準備は、流通している銀行券の一部しかカバーしておらず、全ての銀行券を同時に兌換することは不可能であった。
混乱はミシシッピ会社の株式市場にも波及した。株価は3月から5月にかけて急落し、最高値の18,000リーヴルから500リーヴル近くまで下落した。この株価暴落により、株式を担保として銀行券を借り入れていた投資家たちは深刻な損失を被った。多くの投資家が破産し、パリの金融市場は大混乱に陥った。
政府は事態の収拾を図るため、5月21日に兌換比率切り下げの撤回を発表したが、既に失われた信頼を回復することはできなかった。市場では、政府の政策が一貫性を欠いているという認識が広がり、将来の政策変更に対する不安が高まった。
システムの崩壊は、ローの制度設計における根本的な欠陥を明らかにした。第一の欠陥は、発券規律の不在であった。バンク・ロワイヤルは、理論的には金銀準備に基づいて銀行券を発行することになっていたが、実際には政府の財政需要と株式市場の活況に応じて無制限に近い発行を行っていた。この結果、銀行券の発行残高は実体経済の成長を大きく上回って膨張し、インフレーション圧力が蓄積された。
第二の欠陥は、財政と金融の過度な統合であった。バンク・ロワイヤルが国有化されたことにより、銀行の発券業務は政府の財政政策に従属することになった。この構造では、財政赤字の拡大が直接的に銀行券の増発を促し、貨幣制度の独立性が失われた。現代の中央銀行制度における独立性の重要性は、まさにこの歴史的教訓に基づいている。
第三の欠陥は、資産価格と信用の相互依存関係であった。ミシシッピ会社の株価上昇が銀行券の需要を高め、銀行券の増発が株価をさらに押し上げるという循環は、一時的には好循環として機能したが、逆回転が始まると破滅的な悪循環となった。この相互依存関係は、システム全体を極めて脆弱なものにしていた。
ローの「システム」の崩壊は、信用貨幣制度の可能性と限界を同時に示す歴史的実験であった。この実験から得られる教訓は、現代の金融制度にとっても重要な意味を持っている。
まず、信用貨幣の発行には厳格な規律が必要であることが明らかになった。金銀の物理的制約から解放された紙幣制度は、確かに経済活動の拡大に大きな可能性を提供するが、同時に過度な信用拡大のリスクも内包している。適切な発券規律の確立なしには、信用貨幣制度は持続可能性を失う。
次に、金融政策の独立性の重要性が浮き彫りになった。財政政策と金融政策の過度な統合は、短期的には効率性をもたらすかもしれないが、長期的には両者の健全性を損なう。現代の中央銀行制度における独立性の原則は、この歴史的教訓に深く根ざしている。
さらに、資産価格バブルの危険性が実証された。信用の拡大と資産価格の上昇が相互に強化し合う状況では、一見合理的に見える価格形成も、実際には持続不可能な水準に達する可能性がある。現代の金融政策においても、資産価格の動向に対する注意深い監視が重要とされるのは、この歴史的経験に基づいている。
ジョン・ローの「システム」は、その壮大な失敗にもかかわらず、後の貨幣理論と金融制度の発展に計り知れない影響を与えた。彼の実験は、信用貨幣の可能性と危険性を同時に実証し、後続の経済学者たちに重要な理論的課題を提起した。
ローの同時代人であったリチャード・カンティロンは、「システム」の展開を詳細に観察し、その問題点を鋭く分析した。カンティロンの『商業の性質に関する一般論』(1755年出版、執筆は1730年代)は、ローの実験に対する最初の体系的な批判として、貨幣理論史上重要な位置を占めている。
カンティロンが特に注目したのは、新規通貨の注入が経済に与える配分効果であった。彼の分析によれば、銀行券の増発は経済全体に均等に影響するのではなく、まず最初に銀行券を受け取る人々(銀行の顧客、ミシシッピ会社の株主など)に利益をもたらし、その後段階的に経済全体に波及していく。この過程で、相対価格の歪みが生じ、所得分配に不公平な影響を与える。この洞察は、後に「カンティロン効果」として知られるようになり、現代の金融政策論においても重要な概念となっている。
カンティロンはまた、ローの理論における根本的な誤りを指摘した。ローは貨幣供給の増加が自動的に経済活動の拡大をもたらすと考えていたが、カンティロンは、貨幣の増加が実体経済に与える影響は、その注入方法と経済構造に依存すると論じた。単純な貨幣供給の増加は、生産能力の制約がある限り、最終的にはインフレーションを引き起こすだけであるという彼の洞察は、後の貨幣数量説の発展に重要な貢献をした。
デイヴィッド・ヒュームは、ローの実験を国際的な文脈で分析し、開放経済における貨幣政策の限界を明らかにした。ヒュームの「価格・正貨流出メカニズム」(Price-Specie-Flow Mechanism)は、ローの「システム」が国際的な制約により破綻せざるを得なかった理由を説明する理論的枠組みを提供した。
ヒュームの分析によれば、一国が過度に紙幣を発行すると、国内価格水準が上昇し、輸入が増加して輸出が減少する。この結果、貿易収支が悪化し、金銀が海外に流出する。金銀の流出は、紙幣の兌換準備を枯渇させ、最終的には兌換停止と紙幣制度の崩壊を招く。フランスの「システム」は、まさにこのメカニズムによって破綻したのである。
ヒュームの理論は、単一国による独立した貨幣政策の限界を示すとともに、国際的な貨幣制度の重要性を浮き彫りにした。この洞察は、後の国際金本位制の理論的基盤となり、現代の国際金融制度の理解にも重要な示唆を提供している。
ローの「システム」と現代の中央銀行制度を比較することは、金融制度の進歩を理解する上で有益である。両者の最も重要な相違点は、制度的な規律と独立性の確保にある。
現代の量的緩和政策は、一見するとローの銀行券増発と類似しているが、実際には重要な違いがある。第一に、現代の中央銀行は政府から独立しており、政治的な圧力から隔離された環境で金融政策を実施している。これに対して、バンク・ロワイヤルは政府の直接的な管理下にあり、財政政策に従属していた。
第二に、現代の金融政策は明確な政策目標(インフレーション・ターゲットなど)と透明な意思決定プロセスに基づいて実施されている。政策の変更は事前に市場に伝達され、市場参加者は政策の一貫性を期待することができる。これに対して、ローの時代の政策は、しばしば場当たり的であり、市場の信頼を損なう要因となった。
第三に、現代の金融政策は適切な担保制度と満期管理に基づいて実施されている。中央銀行は国債や高格付けの民間債券を担保として資金供給を行い、政策の効果と副作用を慎重に管理している。これに対して、ローの銀行券発行は、しばしば適切な担保なしに行われ、信用リスクの拡大を招いた。
ローの「システム」における資産価格バブルの形成と崩壊は、現代のマクロプルーデンス政策にとって重要な教訓を提供している。ミシシッピ会社の株価と銀行券発行の相互作用は、信用と資産価格の悪循環が金融システム全体の安定性を脅かすメカニズムを示している。
現代の金融政策当局は、この歴史的教訓を踏まえ、資産価格の動向を注意深く監視し、必要に応じて逆周期的な政策措置を講じている。例えば、不動産価格の過度な上昇に対しては、LTV(Loan-to-Value)比率やDTI(Debt-to-Income)比率の規制を通じて信用供給を抑制する措置が取られる。また、銀行に対しては逆周期資本バッファの積み立てを要求し、好況期における過度なリスクテイクを抑制している。
これらの現代的な政策手法は、ローの実験が示した「信用—資産価格—信用」の相互作用の危険性を回避するために発達したものである。ローの失敗は、現代の金融安定政策の重要な理論的基盤となっているのである。
ローの事例は、金融革新と適切な規制のバランスの重要性も示している。彼の銀行券制度や株式市場の発達は、確かに金融技術の重要な革新であった。しかし、これらの革新が適切な規制的枠組みなしに実施されたため、最終的には破滅的な結果をもたらした。
現代の金融制度においても、フィンテックや暗号資産などの金融革新が急速に進展している。ローの歴史的教訓は、こうした革新の恩恵を享受しつつ、同時に適切な規制的枠組みを構築することの重要性を示している。革新と規制の適切なバランスこそが、持続可能な金融制度の発展には不可欠なのである。
ジョン・ローの「システム」は、18世紀初頭という時代的制約の中で、信用貨幣制度の可能性を追求した壮大な実験であった。彼の理論的貢献と実践的な試みは、その最終的な破綻にもかかわらず、貨幣理論史における重要な転換点を示している。
ローの最も重要な理論的貢献は、貨幣を静的な価値貯蔵手段から動的な「商業のエンジン」として再定義したことである。この視点の転換は、後の経済学における貨幣の能動的役割の理解につながり、現代の金融政策理論の基礎を築いた。また、彼の実践的な取り組みは、近代的な銀行制度、紙幣制度、株式市場の発展に重要な先駆的役割を果たした。
同時に、「システム」の崩壊は、信用貨幣制度の設計における根本的な課題を明らかにした。適切な発券規律の確立、金融政策の独立性の確保、資産価格バブルの防止といった現代の金融制度における核心的な問題は、すべてローの歴史的実験から得られた教訓に基づいている。
ローの事例は、金融制度の革新が社会に大きな恩恵をもたらす可能性を示すと同時に、適切な制度設計と規制的枠組みなしには破滅的な結果を招く危険性も実証している。この両面性の理解こそが、現代の金融政策立案者にとって不可欠な歴史的教訓なのである。
理論的革新性:ローは貨幣を単なる交換媒体から経済成長の推進力として捉え直し、信用貨幣理論の基礎を築いた。この理論的転換は、重商主義的な金銀蓄積論からの決定的な脱却を意味していた。
制度設計の重要性:「システム」の成功と失敗は、金融制度の設計がいかに重要であるかを示している。発券規律、政策の一貫性、適切な担保制度といった要素が、信用貨幣制度の持続可能性を決定する。
期待管理の困難性:市場の信頼と期待の管理は、信用制度の核心的課題である。政策の予測可能性と時間的一貫性の確保なしには、どれほど優れた理論も実践において破綻する。
国際的制約の認識:開放経済における貨幣政策は、国際的な制約を受ける。ヒュームの価格・正貨流出メカニズムが示すように、一国の独立した貨幣政策には限界がある。
歴史的教訓の現代的意義:ローの実験から得られた教訓は、現代の中央銀行制度、マクロプルーデンス政策、金融規制の理論的基盤となっている。歴史の理解は、現代の政策課題に対する洞察を提供する。
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